culture & history

首都コンスタンティノープル

2020年11月18日 水曜日 曇り

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線

田中創 ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか NHKブックス1265 2020年

・・定住型の宮廷とそれを支える都(=コンスタンティノープル)の存在は、王朝の断絶に際しても効果を発揮した。軍隊や元老院、首都の住民、聖職者たちの合意のもとにコンスタンティノープルで承認された東の皇帝たちは、度重なる困難にもかかわらず、長期政権の確立に成功した。これは、帝国西部との顕著な違いであった。というのも、帝国西部では、既にホノリウス帝の治世下にもその傾向は見られたが、ガリアとイタリアという地方間の溝が深く、それぞれの地方で独自の軍事政権を押し立てる傾向があった。この傾向は、ウァレンティニアヌス三世の死後の政治的混乱で一層あらわとなり、統合を保つことはついにできなかったからである。最終的には、東の帝国の介入を許さないために、皇帝を戴かないということが帝国西部での政治的選択肢となった。

 力を蓄えた東の政権とコンスタンティノープルは、ついにはローマの歴史的過去をもわがものとして取り込み、旧都ローマに勝る存在として自らを主張するようになる。ユスティニアヌス帝のもとで実現した、ローマ法の編纂、帝国西部の再征服にあたっては、古のローマの栄光を復古させるという論理が用いられた。しかし、過去の復興という装いの裏には、皇帝権と東地中海世界のエリート層がコンスタンティノープルという都で築き上げた新しい政治的現実があった。首都ローマの栄光は新たなる首都を引き立てるための格好の文化的資産だったのである。

 東の帝国に組み込まれた首都ローマは、皇帝の打ちだす施策に翻弄される時期を長く経験することになる。その桎梏から脱せられるようになるには、ガリアとイタリアという二つの地域がフランク王国の覇権下に統合されるのを待たねばならなかった。そして、その時期に至っても、海洋的な性格を持つ旧都ローマは東地中海世界との密接なつながりを保ち続けることになる。(田中創、同書、おわりに、p241-242)

ユスティニアヌス1世

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