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梶山彦太郎・市原実:大阪平野のおいたち

2024年1月13日 土曜日 曇り

梶山彦太郎・市原実 大阪平野のおいたち 青木書店 1986年

 ・・弥生時代頃となってくると、だんだん時代が短期間に区切られており、このわずか300年がたいへんな差となって出てきます。つまり、弥生時代の中期か、古墳時代の初期かというと、たいへんなちがいとなります。

 こうして、私たちの環境の復元も、地層の層序と14Cによる年代測定値を重視した体系に、考古学的な遺構による判定が加わり、それに古生物学的、とくに古生態学的な資料も加え、綜合的な資料による環境復元といった方向に、転換をしていく結果となりました。(梶山、同書第V章、p52)

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wikimediaより引用。現代の大阪城。

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 ・・先に河内潟の潮間帯は、有明海の干潟のように、泥の深いところであると書きました。しかし川の流れる筋のみは、上流から流されてきた土砂がつもってシルト(砂と粘土の間)または砂地となって、干潮時に、川底づたいに川の末端まで容易に行くことができます。吉田川の筋には、水走(みずはい)や日下(くさか)の縄文貝塚があり、おびただしいセタシジミが見られますが、これらの貝は、どこで採られたものか、わかっていませんでした。しかし当時の縄文人たちが、当然出かけたであろうと思われる採集地が、おぼろげにわかってきたわけです。幸いなことに、その時代の証拠になる土器を残しておいてくれたからです。この縄文土器の出土する層には、セタシジミがたくさんみられるだけで、人の住んだような遺構は、何一つ見られませんでした。

 縄文後晩期といえば、この地方にも、米作りがはじまりだしています。おもな食物は農産物にだんだん変わりつつあっても、春の干潮時などに、家族や近所の人たちが、うちつれて弁当持ちで、シジミ取りに出かけ、こわれた容器(土器)を、その場にすてたであろう状景が、目の前に浮かんでくるようです。(梶山、同書第VI章、p86-87)

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 ・・梶山は、淀川の河口地帯の、満干の差の多い付近に育ちました。満干による変化、洪水による汀線(ていせん)の変化は、幼いときから知りつくしていたのですが、発掘現場で、汀線を実証することのできるデータを発見することは、容易ではありません。前回の論文「大阪平野の発達史」(1972年)を発表後、未解決の問題をかかえたままもどかしい気持ちで、10年をすごしました。その頃、大阪文化財センターによって、中央環状線の発掘調査がはじまりました。そして、数キロにわたる長大な発掘地で、おびただしいクロベンケイ(補註:カニ)の巣穴と思われるものがみつかり、・・高井田や諸福遺跡の環境を復元するに足る資料が出て来たのです。1本であった汀線を、満潮線、干潮線と2本の汀線、それも数キロメートルも幅のある潮間帯に、書き改めることになりました。こうして、今まで水域中にあったとされていた、高井戸や諸福遺跡も、新登場の新家遺跡とともに、潮間帯の遺跡となったわけであります。(梶山、同書第VI章、p87-88)

補註: 満潮線の近くに生息するカニ・・クロベンケイについて・・ 以下引用: 川をさかのぼってすむカニは、大阪付近では、ケフサイソガニ、クロベンケイ、モクズガ二、サワガニの4種です。このうちケフサイソガニとモクズガニは、淀川では、干潮時も水のある、いわゆる常水域に棲みます。クロベンケイだけが、満潮線の近くに巣穴をつくります。・・このように考えますと、地下茎が残存することによって、芦の生い茂っていたことを証明される地域に、巣穴をつくるのは、クロベンケイのみということになります。(梶山、同書第VI章、p73-74)

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wikimediaから引用。生駒山山頂からの眺め。

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