catastrophe

デュピュイ チェルノブイリ

ジャン=ピエール・デュピュイ チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り 現代の「悪」とカタストロフィー 永倉千夏子訳 明石書店 2012年3月(原著は2006年)

2015年2月10日 読了。

この著者の本は、ツナミの小形而上学 嶋崎正樹訳 岩波書店2011年7月(原著は2005年)に次いで2冊目。2005年の夏にチェルノブイリを訪問した直後、そしてパリに帰ってからの情報追加と省察などが、日記風に綴られている。そんなことから西谷修さんの「アフター・フクシマ・クロニクル」を思い出させる著述のスタイルである。すなわち、日記風のため、未完成ながらストレートでわかりやすい表現になっている。しかし、前後を読み比べてみると必ずしも整合性が整っていなかったりする。哲学者の下書きノート的な役割の「どことなく未熟本」といえるのかもしれない。

チェルノブイリ原発事故に関しては、現地の視察とミーティングで得られた実況知識と、パリに帰ってから加えられた国連などの公式発表との大きな段差に惑わされふらつきながらいつしか我に返って今更ながら怒っている著者をリアルタイムの記述で表現している。

IAEAなど原発の産業的推進を目的とする国際機関の発表と、現地の実情とが大きく異なることは、すでに私たちはさまざまなメディアを通じて常識として理解している。が、この本が書かれた2005年のフランスでは、大きな驚きと戸惑いだったのかもしれない。

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2011年の911同時多発テロ事件や、2000年前後の地球温暖化問題に関しても、この著者は公式発表を鵜呑みにしてそれを前提として議論しているようなところがあり、問題の本質をどことなく逃してしまっている。これでは深みが無く、残念である。パリで活躍する科学哲学者というと世界の中心にいて情報が十分に手に入りそうである。が、実情は必ずしもそうではないのかもしれない。

911同時多発テロ事件や、2000年前後の地球温暖化問題に関しては、それぞれ問題の本質は現実の歴史真実把握に基づいて個々に正しく理解してゆくことが大切であろう。チェルノブイリ原発事故のような人類の文明に伴って起きるカタストロフィーと、おそらくそのようなものとは質的に違ったもの(911事件、地球温暖化問題などはその歴史的本質の把握が先決)とを一緒くたに論じてしまうと、カタストロフィーに関する論点が大きくぼやけるのである。

この著者に対する私の不満の一つとして、この著者の議論が根本から出発していないことがあげられる。すなわち、哲学としても不徹底に感じられるのだ。これについては、著者のジャン=ピエール・デュピュイ氏は、西洋キリスト教文明の一員としてその中にどっぷりとつかっていて、その中からのパースペクティブ以外には視点が持てないことが要因となっているかもしれない。

この著者も神という言葉をすでに諸々の人が受け入れているものとして当たり前に使用してしまう。そのため、共通の神意識に縛られていない私たち読者にとっては、彼の議論が曖昧で受け入れづらいものに感じられてしまう。皆が皆、ニーチェのように苦しみ、ルサンチマンの泥沼を引きずる必要はないのかもしれない。が、それでもニーチェ以後の哲学者にはニーチェの問題の手前であぐらをかいていては魅力がないと、私は考えるのである。

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