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孔子の斉への亡命:理由とその時期(BC505-502・孔子48-51歳)

2015年12月21日 月曜日 曇り

「白川静 孔子伝 中公文庫 1991年 オリジナルは1972年の中公叢書」

孔子は、再度にわたって、その祖国を棄てて亡命している。単なる外遊でなく、短きは数年、のちの亡命は十四年にも及び、孔子の理想主義者としての情熱は、そのためほとんど消耗しつくしたかと思われるほどのものであった。孔子が無事の日を送ったのは、第一の帰国後の短い期間と、晩年の五年足らずにすぎない。(白川、同書、p28)

 斉への亡命は、おそらく陽虎の専制のとき(前五〇五)のことであろう。・・・孔子の入斉が、晏子(前五〇〇)・景公(前四九〇)の没年より前であることは明らかであるが、昭公の亡命とは無関係である。
 孔子の入斉は、陽虎(陽貨)の専制(前五〇五)と関係があるように思う。孔子が社会的に注目を受けるのもそのころからである。・・・この「陽貨篇(論語)」にみえる話は「孟子」にもしるされており、孔子がこの男(陽貨)の招聘を受けていたのは事実のようである。
 陽虎の専制は定公五年(前五〇五)、孔子はときに四十八歳であった。(白川、同書、p33-35)

孔子がなぜ陽虎を避けたのか、・・・孔子の当時、孔子のような生きかたをしようとした人物が、他にもいたのである。孔子のように高い理想主義を掲げることはなかったにせよ、生きかたは同じであった。古典の教養をもち、門下をもち、世族政治に挑戦して政権を奪取し、敗るれば亡命して盗とよばれ、どこを祖国とするのでもない。孔子の第二の亡命中、陽虎は北方にあって活躍し、孔子は南方で定居の地を求めていた。いわば競争相手である。その陽虎が魯で専制を成就したのである。孔子は魯にとどまりうるはずはない。「列子」「楊朱篇」には、「孔子、屈を季子に受け、陽虎に逐はる」と明言している。これで孔子の斉への亡命の理由、及びその時期は明らかとなるであろう。しかし二年後、こんどはその陽虎が斉へ亡命してきた。孔子は斉を去らなければならないし、また魯に帰りうることになった。それで斉への亡命を、私は前五〇五年より前五〇二年の間におく。孔子四十八歳より五十一歳までのあいだである。景公はときにおそらく六十歳前後であろう。これで話はすべて合うのである。陽虎の対立者として位置づけられた孔子は、陽虎の亡命ののち、当然、魯の上下から注目を浴びる存在となった。しかし孔子がいくらか得意であった時期は、ものの三年もつづかなかった。孔子はなぜ失敗したのであろう。それは孔子が、革命者ではあっても、革命家ではなかったからである、と私は思う。孔子には陽虎のような、政治的手腕はなかったのである。(白川、同書、p37-38)

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