literature & arts

Austen, Mansfield Park (1)

2017年2月25日 土曜日 曇り

惣谷美智子 ジェイン・オースティン研究ーーーオースティンと言葉の共謀者たち— 旺史社 1993年

Jane Austen, Mansfield Park, first published 1814, published in Penguin Classics, 1996, this edition reissued with a new Chronology and The Novels of Jane Austen 2003.

オーディオブック: Classic Literature Audiobooks
Jane Austen, Mansfield Park, performed by Frances Barber, 2007 BBC Audiobooks, Ltd., published by Brilliance Audio. 12 CDs, 14:48

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マンスフィールド荘園の「静かな観客」 鉄門前の観客

・・だが、ファニーの意識は、ジュリアの見てとるファニーの表面の平静さと楽しげな様子からはほど遠いところにあったのであり、ファニーの沈黙、その静止は、内にあっては、まさに雷鳴さながらの烈しさをともなっていたのである。
 彼女の目と耳は、彼女の前を、それぞれの思惑を秘めて通り過ぎてゆく人間達をひたすら凝視し、聴く。そうして彼女はこの場の唯一の目撃者であり、象徴の把握者となるのである。・・つまり、そうした諸諸の別個のモチーフは、ファニーの精神的緊張の中でのみ結びつけられることが可能になるのである。
・・・(中略)・・・
 そしてまた、ファニーの行動における「沈黙」と、他の登場人物達が欲望のままに庭園を動き回る行動との、このきわだった対照は、行動というものに対する価値観の相違をも呈示しているように思われる。
 人間の行動の価値観を大別して、”being”(いること、存在すること)と、”doing”(行うこと)の二つの関係志向から見る立場があるが、ファニーの場合は”being”(いること)、つまり、「ある(存在する)」関係志向であると考えられる。それに対し、他の登場人物達・・の志向は、まさしく”doing””acting”である。つまり彼らは”do-er”, “actor”(行動する人)として、はじめて自己の存在を確認することができるのだ。・・・(中略)・・・
 常に対象を征服していくことにより、自己の存在の確認を行おうとする彼らにとって沈黙は、言葉の欠如以外の何ものでもない。それは時間の浪費であり、・・何も行っていないことなのである。
 しかし、ファニーの沈黙は、もっと積極的な意味を持つであろう。つまりそれは自己充足と「今、ここにいる」という自分の認識に欠かすことができないものである。(惣谷、同書、p246-248)

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マンスフィールド荘園の「静かな(家庭劇の)観客」 居間の観客

ファニーの芝居拒否の態度
彼女の極度に内気な性格に加え、この状況における家庭劇は、彼女の信条に反しており、彼女は確かに、「もっとも断固たる非演技者(ノン・アクター)である。その拒否はまさにファニー自身の自分の生き方に照準を合わせた自己自身の世界への徹底的な内属性を示しており、その堅固さは、時として一部読者に反発を抱かせるほどのものであろう。(惣谷、同書、p253)

だが、彼女は、人の役に立ちたいという願いと、芝居拒否という信条とのディレンマに陥ることになる。つまり演じる者達が、ファニーにもまた演者になることを強要しはじめるのだ。(惣谷、同、p253)

ファニーは自己の経験と他者の経験ーーーそれら諸経験の絡み合いを通して、透けて見える意味を凝視してきたのであり、自己の過去の経験を現在の経験の中で捉えなおし、また他者の経験を自己の経験の中で捉えなおすことにより、経験をいわば吟味してきたのだ。・・・(中略)・・・ファニーの過去は、ヘンリのように否定されたり、忘れ去られたりするものではない。それは過去というより、むしろ、はるかな現在とも名付け得るようなものであろう。(惣谷、同、p255)

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オースティンの<聖職拝受(オーディネイション)>とヘンリ・クロフォード
・・こうして周囲の者達をことごとく観客に仕立て上げ、ヘンリは演者となる。確かにマンスフィールド荘園の家庭劇において彼は「最高の演者」であった。(惣谷、同、p268)

 しかし、ヘンリにとって、失われてはならぬ本来の自己とは何なのであろうか。彼はいったい<誰>であるのか。・・・(中略)・・・ヘンリは虚の中に実をーーーつまり、演技の中に自らの自己の構築を試みていたのではなかったか。(惣谷、同、p269)

補註 惣谷さんのヘンリという人物に関する描写(同書、p270)を読んでいると、これとほぼ同様の記載をすでに読んでいた・・不生庵さんが三島由紀夫に関して描写した記述と相似、その人物像なのであった。

だが、彼を騙らせるのは、他でもない観客自身ではないのか。さらに厳密にいえば、彼に対する観客の反応ではないのか。(惣谷、同、p271)

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