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謎の四世紀:鵠を見て始めて物を言った誉津別と、白鳥となって列島を去ったヤマトタケル

2016年2月22日 月曜日

小林惠子(こばやしやすこ) 解読「謎の四世紀」崇神、ヤマトタケル、神功皇后、応神の正体 文藝春秋 1995年

三世紀から五世紀を通じて、北方遊牧民系の勢力が半島の奥深く入り込んでいたのだ。この事情は半島だけではない。列島もそうだった。(小林、同書、p12)

「書紀」(神代上のある書・第三)に、スサノオがヤマタオオロチを韓鋤(からさひ)の刀で斬ったとあり、この刀は「今、吉備の神部の許にあり。出雲のひの川上の山是なり」とある。・・赤磐郡吉井町の石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社で、この神社のあらまさという神刀が韓鋤(からさひ)の刀と伝えられている。ヤマタノオロチ伝承が出雲の国島根県ではなく、岡山県にあることは注意を要する。岡山県吉井町の東南には出雲西部の建部臣と同じ名の建部町も存在している。・・これらのことから、当時の出雲には吉備地方(播磨の西部から備前・備中・備後・美作といわれた現在の岡山県全域)が含まれていたのは間違いない。(小林、同書、p39-40)

慕容(ぼよう)氏は劉氏のように晋と対決せず、周辺を掌握して実力を蓄えてから中央に乗り出した。東晋の成立には、劉氏と対照的に軍事面で慕容氏が大きく貢献しているのだ。劉氏一族が隆盛を極めた三世紀末から、劉氏が滅びるまで、半島と列島は、劉氏・慕容氏両雄の攻防の焦点になっていたのである。(小林、同書、p56)

四世紀に入ってからの約百年間はおおまかに言って、高句麗と新羅は匈奴の劉氏系の勢力圏にあり、百済は慕容氏側にあったと総括される。(小林、同書、p59)

垂仁(すいにん)朝のヤマトタケル
・・百済とよく似ているのが、狭穂彦(さほひこ)の丹波王朝を滅ぼして但馬に本拠を定めた天の日槍(ひほこ)王国である。「記紀」は垂仁朝以来、各地にあった王国のうち、慕容氏の支配に下った丹波の天の日槍系統を垂仁朝として記載しているようだ。・・垂仁朝の元年は一月の朔(ついたち)が丁丑(ひのとうし)で三一三年にあたる。・・三一八年の狭穂彦(さほひこ)の丹波王国討伐は慕容皝が主導したらしい。天の日槍もこの時、参加したから、天の日槍が列島に上陸した三一三年頃を垂仁元年としたのかもしれない。・・・しかし実際の垂仁朝は三一八年から九年にかけて狭穂彦(さほひこ)が滅ぼされた年から、三三六年一月、慕容仁が兄の皝に殺されるまでの約一七年間だから、田道間守(たじまもり)は天の日槍の子かせいぜい孫にあたるだろう。・・・しかし垂仁が慕容仁で、列島にいなかったとするなら、・・・(小林、同書、p136-138)

垂仁二五年(三三七)からヤマトタケル朝(小林、同書、p145):
垂仁朝が慕容仁からくるとするならば、仁が三三六年に死んで一年後の三三七年に列島に新しい統治者が現れたとするのは自然である。その新しい王朝が垂仁の次の景行(けいこう)朝なのだ。仁は遼東に常住しており、列島に住んだ様子はない。しかし、列島に新しく現れた景行は確かに列島に来た。(小林、同書、p141)

誉津別(ほむつわけ)
誉津別の母は狭穂姫(さほひめ)だが、父親は私見では慕容皝である。誉津別は慕容仁に代わって最も列島を治める資格がある人物と言えよう。しかし、・・「記紀」には誉津別はその後、全く登場しない。一体、彼はどうなったのだろうか。私は誉津別=ヤマトタケルだと思っている。(小林、同書、p142)

そして最後にヤマトタケルの白鳥は天に上っていった。景行紀には棺の中には衣だけ残されていたとあるから、道教の尸解(しかい)説を取り入れている。尸解説とは棺の中に身の回りの物だけ残して死体が消えて無くなっている状態をいい、死者は本当に死んだのではなく仙人になったと考えられている。政治的に尸解説を取り入れた場合、死んだことにして他国に亡命したことを暗示している例が多い。・・「記紀」や「風土記」の編纂された八世紀始めまで、ヤマトタケルは太子ではなく大王と考えられていたのである。(小林、同書、p143)

鵠(くぐい、今の白鳥)=白鳥
鵠を見て始めて物を言った誉津別と、白鳥となって列島を去ったヤマトタケルは鵠=白鳥を通じてしっかりと結びついている。・・生まれたのは誉津別と同じ三一八年である。・・景行紀はヤマトタケルをダブらせた王朝である。・・・垂仁朝は慕容仁が列島に影響を与えた王朝である。一方、誉津別=ヤマトタケル=景行朝は、その仁を殺した誉津別の父親・皝の影響下の王朝である。したがって垂仁朝と景行朝の間では王朝交替が存在したといえる。・・それだけでなく母方の丹波王朝はすでに滅びていたから、ヤマトタケルには列島内にこれといって後ろ盾になる国はなかったのである。・・「記紀」にみえるように、ヤマトタケルの戦いには我々がみてもだまし討ちが多く、王者の戦いをしたとはいえない場合が多い。このヤマトタケルの戦いの実態を後世に伝えようとするならば、ヤマトタケルその人を天皇とするわけにはいかないだろう。(小林、同書、p143-145)

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慕容:
慕容恪 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/慕容恪
慕容 恪(ぼよう かく、? – 367年5月)は、五胡十六国時代の前燕の政治家・武将である。字は元恭。鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現遼寧省義県の西方)の人。慕容皝の第4子で、兄に慕容儁、弟に慕容垂・慕容徳がいる。前燕の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国時代随一の名将であると評された

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景行天皇 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 – 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 – 同60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。

日本武尊の活躍[編集]
27年8月、熊襲が再叛。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じる。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した(景行43年)。白鳥陵に葬られた。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、大東亜戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったという。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)

ヤマトタケル ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル
ヤマトタケル(生年不詳 – 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される[注 1]。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。

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