2016年2月23日 火曜日
小林惠子(こばやしやすこ) 解読「謎の四世紀」崇神、ヤマトタケル、神功皇后、応神の正体 文藝春秋 1995年
神宝はその国のレガリアだから、垂仁が天の日槍が持っていた宝を持ってこさせた(垂仁八八年条)ということは垂仁に対する天の日槍の服属儀礼である。したがってこの場合の垂仁は天の日槍と共闘した慕容仁ではなく、ヤマトタケルと考えられる。ヤマトタケルが列島の王になって前勢力の天の日槍の子孫に服属を求めたのだ。・・丹波王国ではこのように闘いになることなく、狭穂彦を滅ぼした慕容仁系の天の日槍王朝がヤマトタケルに服属した。しかし他の地方はそうはいかず、ヤマトタケルは九州や北陸・関東・東北に遠征することになる。(小林、同書、p146)
列島は邪馬臺国以来、女王が神を祀った場所が列島の首都と考えられてきた。したがって私見(「三人の神武」)のように、神武の一行は邪馬臺国の神を奉じた臺與(とよ)を連れて大和に入ったのである。・・・垂仁朝になってヤマトタケルが列島を支配しようとした時はすでに臺與はこの世にいなかった。そこでヤマトタケルは一族(・・)の倭姫に天照大神を祀らせ、名実共に列島の支配者になろうとした。しかし倭姫も大和に定着できず、各地を遍歴することになった。(小林、同書、p148)
「古事記」のヤマトタケル東征説話はヤマトタケルの東征としてではなく、神武勢力の東征としてみなければならない。その認識のもとに東征のコースをみると・・・このコースからみると、三世紀後半の神武勢力は、太平洋側の千葉県まで勢力を進展させていたことが想像される。意外に広範囲だが、しかし北陸・関東地方の内陸部や東北には及んでいない。・・・四世紀前半のヤマトタケルの東征の場合、三世紀の神武の時と違って新たに関東から東北の一部が加わっている。北陸から関東に勢力を進展させたのは崇神朝の四道将軍の一人大彦命(おおびこのみこと)だった。結局ヤマトタケルの東征は、劉氏系崇神朝の本流ともいえる大彦政権征服への遠征だったのである。(小林、同書、p154-155)
白鳥がつなぐ三人の人物
ヤマトタケルを弱らせる契機になった白鹿は一体何を意味するか。・・白鹿は扶余を象徴する動物である。景行朝の最終年は一一月朔が辛卯(かのとう)とある。一一月の朔が辛卯なのは三四七年である。「書紀」の編者はヤマトタケルが扶余攻めのため、列島を去ったのを三四七年と考え、この年で景行朝の終わりとしたのだ。(小林、同書、p156)
ヤマトタケルが白鹿に表象される扶余を攻めて、列島を去ったのは「書紀」では三四七年(実際は三四六年)だが、同じ年、儁は扶余を攻めている。・・白鳥はホムツワケ=ヤマトタケル=儁の三者を結びつけ、ただ一人の実像を浮かび上がらせたのである。(小林、同書、p159)
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慕容儁 ウィキペディアによると・・・謚は景昭帝
景昭帝 慕容儁
前燕
第2代王(皇帝)
王朝 前燕
在位期間 349年 – 360年
都城 龍城→薊→鄴
姓・諱 慕容儁
字 宣英
諡号 景昭皇帝
廟号 烈祖
生年 大興2年(319年)
没年 光寿4年1月21日
(360年2月23日)
父 慕容皝
皇后 可足渾皇后
陵墓 龍陵
年号 元璽 : 352年 – 357年
光寿 : 357年 – 359年
慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Juàn / Jùn)は、五胡十六国時代の前燕の第2代君主。当初は燕王を自称したが(在位:349年 – 352年)、後に皇帝を称した(在位:352年 – 360年)。太祖慕容皝の次男で慕容恪、慕容垂、慕容納、慕容徳の兄。
永和4年(348年)の父の卒去に伴い燕王を称し、翌年1月春秋列国故事に依って元年を称した。4月に東晋の穆帝の使者の陳沈は慕容儁に使持節、侍中、大都督、河北諸軍事の都督、幽州・冀州・并州・平州4州の牧、大将軍、大単于、燕王を下賜し、正式に燕王となった。
さらに同年、後趙の石虎が死去して後趙内部で皇位継承争いが起こり、事実上国内が崩壊すると、永和6年(350年)、この好機を見逃さなかった慕容儁は後趙に侵攻し薊(現在の北京に当たる領域)を奪い、そこを前燕の都とした。翌年、冉閔が後趙を滅ぼすと慕容儁は冉魏に侵攻、永和8年(352年)9月には冉魏を滅ぼし、大燕皇帝として即位し、元璽元年とした。翌年11月、冉魏の都だった鄴に遷都している。青州で斉王を名乗る段龕を元璽5年(356年)末に数年の戦闘すえ平定した。
しかし聡明で知られた皇太子の慕容曄が早世したため、光寿元年(357年)1月に止むなく三男の慕容暐を太子に立てた。翌年6月に并州で半独立状態だった後趙残党を滅ぼし、明年冬に歩卒150万を鄴に集結させる計画を立てた。光寿3年(359年)鄴の治安が集結させた兵士たちによって悪化した状況で病気が悪化し慕容暐の若さと力量を案じて弟の慕容恪を後見人した。光寿4年(360年)1月に42歳で崩御、慕容暐が皇位を継承した。
身長は八尺二寸(約188cm)、読書を好み学問に秀で、武芸も優れ、性格は威厳があって重々しく、行動は慎み深く礼儀作法に適ったものであった。
『晋書』(慕容儁戴記)
以上、ウィキペディアより引用
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レガリア ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/レガリア
レガリア(ラテン語: regalia)・リゲイリア(英語: regalia)は、王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品である。 天叢雲剣などの刀剣、伝国璽などの印璽が用いられる例があるほか、西欧諸国においては王冠・王笏・宝珠の3種がよくみられる。
レガリアの例:
三種の神器 – 日本皇室
五種の神器 – タイ王室
ジョワユーズ – フランス王室
連合王国の戴冠宝器 – イギリス王室
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誉津別 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/誉津別命
言葉を発するまで
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。
一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。
さらに、『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。
多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天ミカ津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。
これらの話は神話研究では、記紀でのスサノオが大人になっても泣いてばかりであったことや、また『出雲国風土記』でのアジスキタカヒコネが口が利けなかったという神話と比較されている。
以上、ウィキペディアより引用。
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