白川静 中国の古代文学(二)史記から陶淵明へ 中公文庫 中央公論新社 1981年 初出は1976年。
漢初の豪侠の風は、武帝のころまでなお残されていたが、司馬遷が生きたのは、そのような時代であった。かれが人間の運命について深い関心を寄せたのは、もとよりかれの身世に因るところもあるが、独立不羈を尊ぶ当時の風尚にもとづくところがあるであろう。運命は、自己貫徹を妨げる力として、人びとに意識される。司馬遷が好んで用いる「倜儻不羈(てきとうふき)の人」というのは、そのような運命への挑戦者を意味する語であった。(白川、同書、p9)
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天道の是非を問うのは、「名にしたがう(徇ふ)」ことが「烈士」の生き方であるからである。「史記」百三十篇は、天道の是非を問うために著されたものであり、そして「伯夷列伝」は、その序論をなすものであろう。そこには、孔子が賛嘆してやまない古代の高逸の士を借りて、士人の生きかたの典型が描かれている。天道はもともと是非のあるものではない。「老子」に「天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)(わら人形、祭りののちに捨てられるもの)と為す(五章)」というように、それはすべての存在に超然たるものである。しかし、そのように不仁であることが、行為的主体としての人に、否定的契機を与える。そして人は、それに憤ることによって、はじめて「倜儻非常の人」となりうるのである。もし「伯夷列伝」がそのような士人と運命についての序論であるとすれば、「太史公自序」はその結論にあたるものであろう。そこではいわゆる発憤著書の説が述べられている。それは遷の運命論と、深くかかわるものであった。(白川、同書、p24)
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注>>> 倜:テキ・チュウ すぐれる 司馬遷の「任安に報ずる書」には「倜儻非常の人」という。倜然という語は荀子が好んで用いた語である。(白川・字統・p645)
倜儻不羈:信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたい様。倜とは、優れていて、拘束されないこと。儻とは、志が大きくてぬきんでていること。羈は馬を制する手綱を意味し、不羈で拘束されないことを表している。
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