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日本書紀の紀年論について

2016年2月18日 木曜日 曇り

日本書紀の紀年論

三善清行による「革命勘文」[7]で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」

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補注** 紀年論について

ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀 によると・・・
那珂通世の紀年論
古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文」[7]で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[8]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている[9][10]。
詳細は「紀年論」を参照(補注:160219現在作成中となっている段階)
日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある[11][12]。
<以上、ウィキペディアから引用終わり>

補注: 那珂の通説vs飯山説

明治時代の那珂通世は、鄭玄の「三七相乗 廿一元(60×21=1260年)爲一蔀」を前提にして推古天皇9年(601年)の辛酉の年を割り出しており、この前提は「書紀」の著者たちの見解と合っているかもしれないし、違っているかもしれない。

一方、飯山説では、那珂による紀年論60×21=1260年で割り出した起源(紀元前六六〇年から1260年ののち、推古天皇9年(601年)の辛酉の年)に対する考え方をそのまま利用しながら、オリジナルの鄭玄の1320年を援用して661年辛酉の年を割り出している。前提(鄭玄の1320年を「書紀」の著者たちが使ったに違いないという推定)に答え自体が含まれていることになり、数学的には、正しい導出方法とは言いがたい。まずは直観で答えを得てから、その後で欲しい答えに合う算出式(鄭玄の提唱する合算結果、合千三百廿年、1320年を採用)を持ってきていることは否めない。(ただし、この飯山説の答えは、「書紀」の著者たちと、計算結果が合致している可能性は高いと思う。和風諡号「天命開別天皇」はそれを示唆する。が、あくまで状況証拠に過ぎない。)

もともと鄭玄の 「二十一元(1260年)を一蔀と為す。合わせて千三百二十年」の大前提に一元(60年分)プラスの説明不十分な計算結果があり、この矛盾(ないし説明不足)を解決することは我々には(数学的には)不可能である。

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補注 日本書紀と百済三書:
ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀 によると・・・
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。・・三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[24]、・・
現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている[27]。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして[28]、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている[29]。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある[30][31][32][33][34][35]。

[29] 天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城、維鳩、公州付近から全羅道の栄山江、蟾津江流域にまで及んでいる。これは、滅亡時の百済王が独立して、かつ正当に統治していた国家の領土とほぼ一致する。しかし、7、8世紀の交の在日百済王族、貴族はそれを天皇から委任された統治と表現せざるを得ない臣下の立場にあった。このような観念を実体化して、「高麗、百済、新羅、任那」は「海表の蕃屏として」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体紀』)などというのは信頼し難い。山尾(1999)

<以上、引用終わり>

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補注* 西暦一八四年は、中平元年、後漢霊帝(れいてい)の甲子の年。黄巾の乱が始まり、後漢から三国への転換期。
彼ら(太平道)はついに「蒼天(そうてん)すでに死す、黄天まさに立つべし」とするスローガンのもと、全国に張りめぐらされた「方(ほう)」という組織を核として、一斉に蜂起した。(川本芳昭 中華の崩壊と拡大:魏晋南北朝 中国の歴史05 講談社 2005年)

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