白川静 中国の古代文学(二)史記から陶淵明へ 中公文庫 中央公論新社 1981年 初出は1976年。
(司馬遷は)「采薇歌(さいびのうた)」を録したのち、「これによりてこれを観るに怨みたるか非なるか」と、孔子の語に疑問を提出する。しかしこの疑問は、おそらく孔子に対してのみ提出されているのではない。また、「采薇歌」の解釈などを論拠とする、注釈家のそれでもない。それは世のいわゆる善人の運命について、さらにいえば自己貫徹を理想とする士の生きかたそのものについての是非を、問うものであったとみなければならない。それで司馬遷はさらにつづけて・・・天道に対する深い懐疑をもらすのである。・・・(中略)・・・「余、甚だ惑う。あるいはいわゆる天道是なるか非なるか」という憤りに近い語は、おそらくかれ自身の身世に寄せるものであろう。天道はついに頼むべきものではない。しかし天道がついに善に与しないものであるとしても、天道の存することは疑いえない。天道の是非を問うことは、神を失った人間の宿命であるというべきであろう。
人が運命と対決しながらもその自己貫徹を求めてやまないのは、ひたすらに名を著すことを求めるゆえである。士にとっては、名こそその運命を超えて永遠なるものであり、自己貫徹のみちである。しかもそれすらも、託するところがあってはじめて可能なことであった。(白川、同書、p21-22)
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注>>> 薇: わらびvsぜんまい 蕨vs薇 ケツvsビ
薇は、ぜんまい、ビ。采薇は、サイビと読む。ぜんまいをとる。(参考:白川、字通、p586) 一方、わらび・・・蕨 (音読み)「ケツ」 (訓読み)「わらび」
采蕨歌 ワラビを採る歌・・・であったならサイケツカ・・・と読むのだろうか。老眼の眼には漢字をしっかり見きわめないとわらびかぜんまいか判明しないので要注意。
身世: シンセイ。生涯。宋の文天祥の詩に「身世漂搖して、雨、萍(ヘイ・ビョウ・うきくさ)を打つ・・・」(白川、字通、p847-848)
私の今までの生涯で「身世」という熟語は用いる機会がなかったが、白川さんの著書を読んでいるとしばしば遭遇する語である。・・・ということで私も今後の生涯では、身世という言葉も使わせていただくことと決めた。
萍 は、うきくさ、よもぎ。(白川・字統・p793) 総画索引でサーチしてやっと見つけて読み方がわかった。クサカンムリは六画(旧字体)で索引をひかねばならない。将来的には、コンピュータに字形を入力して読みを教えてもらうメソッドを勉強して能率を上げたいところだ。
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