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「史記」: 私たちは、史伝中の人びとのように生きること、その運命の実践を義務づけられたのである。

2015年12月24日 晴れ

白川静 中国の古代文学(二)史記から陶淵明へ 中公文庫 中央公論新社 1981年 初出は1976年。

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大交響曲「史記」: その最も重要な根源的な部分は、無弦の琴のように音を発することがない: この書に示されたようなさまざまの運命に生きることを、私たちに命じている

私たちは、「史記」の人びとのように生きることを典型として与えられ義務づけられたのである

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「史記」の文章:

「史記」のうち最もひろく知られている「項羽本紀」など漢初の史実に関するものが、多く「楚漢春秋」など先行の記録によって編述されたもの。(白川、同書、p58)

「孔子世家」のごときも、孔子説話の集成されたものをそのまま録したものと思われ、はなはだ誤りの多いものである。(白川、同書、p58)

疑いなく太史公の手筆になる部分は、各篇の論賛や、・・・報告書「西南夷列伝」のようにその見聞を存するもの、その他同時代のものに限られ、他はみな別に資料をもつものとみてよい。しかしその「西南夷列伝」の論賛には・・・など、東越を禹の余烈と称するのと同じく疑わしい伝説を録し、またその文は押韻を用いている。・・・総じていえば、韻語を用いるものははなはだ内容に乏しく、他と調和していない。かつ「自序」と本文と論賛との関係が一致を欠くこともあり、のちに述べる「呂后本紀」のごときは、最も著しい例である。(白川、同書、p58-59)

「史記」を文学としてみるとき、その文章は・・・全体として精粗の差の著しいものである。(白川、同書、p60)

・・・文学としての「史記」は、ひとえに受刑によって開かれた遷の運命観と、その表現者としての自覚によって支えられている部分にある。それは「史記」のうちのある限られた部分において、強く主調音としてはたらきながら、全体を大交響曲として高める役割をしている。
 しかしこの大交響曲は、聴くものにカタルシスとして機能するものではない。その最も重要な根源的な部分は、無弦の琴のように音を発することがないからである。人間の運命を主題とするこの偉大な史書は、その問題に解決と慰めを与えるものではなく、この書に示されたようなさまざまの運命に生きることを、その運命の実践を、むしろ将来の人びとに課したのであった。人びとは、その史伝中の人びとのように生きることを典型として与えられ、義務づけられたのである。(白川、同書、p60)

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注:

楚漢春秋 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 https://kotobank.jp/word/楚漢春秋-89825 より<以下引用>
中国・漢代の史書。陸賈 (りくか) 撰。1巻。漢の劉邦と楚の項羽との争いを中心にして記され,文帝時代までを内容とする。司馬遷は『史記』の漢初の項をこれによって書いた。散逸して原形は失われたが,清代に『史記』『漢書』などの注に引かれたものが集められ、1巻となった。

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無弦の琴  <以下引用> 陶淵明 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/陶淵明
絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の 「陶淵明伝」に記された故事による。 無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/陶淵明 より引用。

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