culture & history

ブールゴーニュ公が単独でフランス王シャルル7世と結んだ「アラスの和平」

2021年3月30日 火曜日 曇り

アラスの和平

1435年9月21日、ベッドフォード公の死(9月14日)を待つようにして、ブールゴーニュ公が単独でフランス王と結んだ経緯が、世にいう「アラスの和平」なのである。(佐藤賢一、『英仏百年戦争』、集英社新書 p165)

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シャルル7世の戴冠式 ランスのノートルダム大聖堂 Tijmen Stam (User:IIVQ), https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1663849による

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ランスのノートルダム大聖堂 Ludovic Péron – https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2761470による

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Lehmann_-_Charles_VII_de_France,_le_victorieux; This painting belongs to the Portraits of Kings of France, a series of portraits commissioned between 1837 and 1838 by Louis Philippe I and painted by various artists for the Musée historique de Versailles.

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・・ノルマンディとアキテーヌに着々と輪を狭めて、全ては来るべき決戦の下準備だった。かかるシャルル7世の姿勢は、同時平行的に進められた国政改革の数々からも、看取することができる。  この点で恵まれていたのは、祖父王シャルル5世の優れた前例があったことだ。シャルル7世の施政も財政改革と軍制改革を両輪として行われたが、こたびは支配者の意思、いわば上からの一方的な押しつけでなく、フランス人としてフランスという国を思う民衆の意思、いわば下からの意識変革を受ける形で進められた。  その象徴的な催しが1439年10月から11月にかけて、かのオルレアンに招集された全国三部会である。(佐藤賢一、英仏百年戦争、p168)

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補註: ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立  ウィキペディアによると・・・<以下引用>

精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、豪胆公や息子のジャン1世(無怖公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公と息子シャルル・ド・ヴァロワを中心としシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。

このようなフランスの状勢を見て、イングランドヘンリー5世は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして1415年、ヘンリー5世はシャルル6世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、10月25日アジャンクールの戦いで大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた。 <以上、ウィキペディアより引用終わり>

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シャルル6世

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