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陳舜臣 実録アヘン戦争

2016年12月26日 月曜日 曇り(陽射しあり)

陳舜臣 実録アヘン戦争 中公新書255 1971年

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林則徐が武昌を発ったのは、(道光十八年)旧暦十月十一日のことである。・・十月十日が皇太后万寿(誕生日)の祝日にたって、総督は閲兵する必要があり、それをすませてからにしたのだ。  余談にわたるが、清朝が滅びたのは、この年からかぞえて七十三年目の辛亥の年である。新暦と旧暦の差はあるが、おなじ日付の十月十日(いわゆる双十節)、おなじこの武昌の地にとどろいた銃声が革命成功を告げた。詰襟すがたの革命青年たちが共和国万歳を叫んでいたとき、この町の八十以上の老人なら、総督林則徐が百官の見送りを受けて、勇躍北京へ出発した日のことをおぼえていたであろう。そして、こんにち(補註、この本の出版は1971年)八十歳の老人は、辛亥革命の年にはすでに二十であるから、若い血をわかせていたはずだ。歴史はこんなふうに橋渡しをされることで、われわれにぐっと近づいてくる。  武昌から北京まで一ヵ月かかった。(陳舜臣、同書、p110-111)

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・・林則徐が龔自珍(補註#参照)になにを説明したか、推察するほかはない・・・
・・・林則徐は皇帝から信任されたとはいえ、皇帝は気ままなものだから、いつ意見をかえて退却するかもしれない。成功よりも失敗の公算のほうが大きい。
 出発に際して、林則徐は侍郎沈鼎甫(しんていほ)にむかって、  
   ーーー死生は命なり。成敗は天なり。(補註##)  
   と言って、相顧みて涙を流した。
 失敗を予感していたのであろう。それだからこそ、こんどの任務で、友人をまき添えにしたくなかった。あるいは、自分が失敗したあとにつづく人物を、温存しておくという配慮をしたのかもしれない。 
 だが、そのようなことは、皇帝にたいして不信を表明することになるから、文章を書くことはできない。だから、わざわざ個人的に信頼のできる身内の者をつかわして、その「言い難きもの」を説明させたのであろう。
 私の右の推測はそれほど間違っていないと思う。(陳舜臣、同書、p118-119)

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アヘンを処分し終えて、林則徐は、
ーーー夷人とはいったい、いかなる人間であるか、そして夷国とは?
という問題に、あらためて取り組んだ。(陳舜臣、同書、p147)

アヘン戦争当時の清国指導者が、まるで外国の事情を知らず、夜郎自大、独善的中華思想に終始したというが、じつはそうとばかりは言いきれない。またイギリスのほうにも、清国側をなめた独善的な言動が、すこぶる多いのである。
・・・(中略)・・・ 
・・林則徐の病院訪問は、じつはヘルニア治療が目的ではなかった。一冊の洋書をたずさえて、中国語のできるドクトル・パーカーに、その翻訳を依頼するためである。その書名は、
 <Law of Nations>(国際法)
 スイスの法律学者エメリック・ド・ヴァッテルの著書である。
 林則徐がエリオットへの批に、イギリスは他国へ行けばその国の法律に従うしきたりになっているはずだ、と書いたのは、ちゃんとしらべたうえのことだった。パーカーはヴァッテルの国際法の主要部分を、「各国禁律」という題で訳出し、林則徐に渡していた
 それにくらべると、エリオットのやり方は独善的であり、傲慢であり、しかもこの時点においては、いささかヒステリックであったといわねばならない。(陳舜臣、同書、p152,154)

ここでマカオの地位が問題になってくる。マカオはポルトガルの植民地とされているが、アヘン戦争当時は、はっきりそうと言えないところがあった。・・・(中略)・・・当時のマカオは、清国とポルトガル両国のなれ合いという、奇妙な統治形態をもった土地であって、植民地というよりは、「特殊居住地」とでもいった表現をすべきであろう。  だから、清国欽差大臣の命令は、マカオでも生きることになる。ポルトガル側が内政干渉などと異議を唱えると、たちまち割譲未承認という問題が出るのでうまくない。(陳舜臣、同書、p155)

グラドストンの国会演説の一部
・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない。いま私と意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちてひるがえった英国旗について言及された。だが、その旗こそは、悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえったのである。現在中国沿岸に掲揚されているようにしか、その旗がひるがえらないとすれば、われわれはまさにそれを見ただけで恐怖をおぼえ、戦慄せざるをえないであろう。(陳舜臣、同書、p170-171)

戦争の経過は、くわしく書く必要もないだろう。堅艦巨砲、よく訓練された将兵をもつイギリス遠征軍の前に、清国陸海軍はまるで赤ん坊のようなものであった。(陳舜臣、同書、p176) ほとんど勝負にならない戦争だといってよいだろう。(同、p187)

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龔自珍 ウィキペディアによると・・・
龔自珍(きょう じちん、1792年8月22日 – 1841年)は清代中国の学者。字は爾玉、または璱人。定盦(あん)と号する。後に名を改め、鞏祚ともいう。
生涯と業績
段玉裁の婿であった麗正の子として、仁和(浙江省杭州市)に生まれる。道光帝の時に進士となり、礼部主事となる。12歳の時に祖父の段玉裁について『説文』を学び、さらに劉逢禄に教えを受け、金石・官制・目録の学に通じ、今文派の中堅として公羊学の勃興をもたらした。
著書と学問
龔自珍の著書で最も影響力があったのは『春秋決事比』6巻と『五経大義始終論』・『答問九章』であり、友人であった魏源の著書とともに文章の妙で清代末期の学界を風靡した。文体の剽窃を難じられることもあったが、その学派の流行は後に康有為を輩出した。
西北の地理に関心を抱き、『西域行省議』・『蒙古図志』は魏源の『海国図志』とならび称された。また『定盦文集』に見える農宗論は、農本主義に基づく社会政策を強調したもので、龔自珍の政治傾向をうかがうことができる。晩年は彭紹升に私淑して壌歸子と称し『龍蔵考證』・『三普銷文記』をあらわし仏教(天台宗)に傾倒した。龔自珍や魏源は、仏説を採用して公羊学の方向を定め、後に公羊学派は公然と仏弟子を称し、康有為は孔子をイエス・キリストと同一視するまでになった。
その他の著書として次のものがある。詩集の日本語訳注(抜粋)に『中国詩人選集第2集14 龔自珍』(田中謙二、岩波書店)がある。
『定盦文集』3巻
『続集』4巻
『附餘集』
『龔定盦別集』
『詩集定本』2巻
『詞定本』
(以上、ウィキペディアより引用)

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補註##
死生有命 論語 顔淵第十二 5
12-05 司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮。四海之内。皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。

至於成敗、天也。豈可豫憂其不成、遂輟不爲哉 『宋名臣言行録』韓埼(かんき)
成敗に至りては天なり。豈(あ)に豫(あらかじ)めその成らざらんことを憂えて、遂に輟(や)めて為さざるべけんや (cf. 欽定古今圖書集成, 第 530 巻; 東洋史研究, 第 32 巻)

補註##の補註1
死生有命(論語にある子夏の言葉) 成敗天也(宋の韓埼の言葉、その由来は宿題に・・)

鴉片戰爭前夜林則徐禁煙的矛盾現實(3)_書味頻道_新浪網-北美
books.sina.com/bg/funny/historystory/…/1902273618_3.html
林則徐雖得到皇帝的信任,但皇帝是個無定性的人,說不定什麼時候就會改變主意, 打退堂鼓。失敗比成功的可能性要大。 林則徐臨出發時,曾對侍郎沈鼎甫說:“死生有 命,成敗在天。”說後相顧流淚。 看來他早就預感到失敗。正因為如此,他不願因這次的 … ほぼ陳舜臣さんの文章と対応している。よって、上記のサイトで陳舜臣さんの文章が中国語に訳されているのであろう。(典拠について・・これも宿題・・)

補註##の補註2
岩倉具視「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや」1867年ごろ。大政奉還、王政復古と続き、政情が非情に緊迫していたときの言葉、とのこと。(同じく、典拠について後に調べてみたい)。

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