2020年8月30日 日曜日 雨
小浜逸郎 可能性としての家族 ホット出版 2003年復刊(オリジナルは大和書房1988年)
放蕩息子のたとえ:「もしこの父親の二男に対する対応が他の家族成員との関係を考慮しなくてもよいという条件がつけられるならば」とことわり書きをしておいた。(小浜、同書、p91)
・・しかし私は、もしこの父親の二男に対する対応が、他の家族成員(ことに長男)との関係を考慮しなくてもよいという条件がつけられるならば、基本的にこの父子関係は正解なのだといいたい。(小浜、同書、p89)(補註:・・しかし、他の家族成員との関係を考慮しなくてもよいなどということはありえない。つまり、基本的にこの父子関係は正解ではありえない。と補註します。)
・・二十歳を過ぎた自立したはずの大人がいつまでも父親の愛情配分の不公平などにこだわっているなんて、と思うかもしれない。しかしそうではない。私は、ごく早期からの関係史によって深いところで形成されてしまった「心的な風景」のことを言っているのである。ひとりの個人にとって、自分の出てきた家族とは何であるのかという、その「心的な風景」は、生涯変わるものではない。それは自分がその家族の中で置かれた位置関係と、その位置関係によって条件づけられた初期的な感情生活のあり方とによって、ほとんど決定されてしまっている。二十歳はおろか、三十や四十になっても、かれがその家族の一員として親兄弟と向き合う場面では、かつて植えつけられた「心的な風景」を、その向き合いの意識においてまるで唯一の通行手形のようにして噴出させる他はないのである。年齢の積み重ねはただ、そうした家族存在としての避けられない自分や自分に向き合う相手に、留保つきの宥しを(補註**参照)与えてやることができるだけなのだ。(小浜、同書、p93)
補註**:宥める<なだめる>の宥という字を<ゆるす>と読ませている。ウェブ辞書によると・・「宀(うかんむり)」は建物の屋根の象形。 音符の「有」は「囿(ユウ)」に通じ「庭園」の意味。 庭園のように広い家屋の意味から「ゆるめる、ゆるす」の意味を表す。宥という字はこの文脈にぴったりと感じられる。ただし、ワープロだとユルしと入れても「宥し」とでてこない。なので、自分のATOKに単語登録する必要がありそうだ。)
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マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835-1910年)、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)
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