2020年8月30日 日曜日 雨(一日中続く雨)
小浜逸郎 可能性としての家族 ポット出版 2003年(オリジナルは1988年)
・・私たちが成長の自然過程として思いうかべるのは、家族からの離脱を徐々に図りつつ家族以外のところに自我の帰属場所を形成してゆくというイメージである。しかしこの青年の場合は、おそらくさまざまな要因によってそうした生長の自然過程をどこかで阻まれていたものと思える。 「うるせえな」「親なんか死んじまえ」というのは、思春期を通過する者のだれもが経験し表出する感情である。これがこの年代のほとんど唯一の<思想>らしい<思想>といってもよい。これがひとつの鎧や武器のようにかれの外郭を固めるとき、そこにはかれの自我にとって、必ず肯定さるべき健全なものが芽生えているのだと考えてよい。それは鎧や武器という一定の外形をとりえているかぎりで、ひとつの排出回路だからである。「親なんて死んじまえ」という感情やことばをたとえ百万回経験したところで、かれはそんなことを実行に移しはしない。 しかしこの青年(補註:昭和55年の「金属バット事件」の青年)の場合はなぜかそこのところが少しばかりちがっていた。(小浜、同書、p115)
**
・・もしもこれらの事件にかつてなかった現代性を認めうるとすれば、それは、家族がそれぞれに社会的関係から孤立し、そのエロス的空間としての輪郭をきわだたせ、他者の介入する余地のないそれ自身の論理を内閉的につきつめたあり方を示してみせたところにこそある。そのつきつめは、かつてのように、家風とか門地とか先祖代々の伝統とかいった、<制度>あるいは<習俗>の形式にけっして疎外(転化)しえない構造のもとに行われざるをえないのである。そこに存在するのは、社会的儀式を与えられない、生身の成員たちのくりひろげる生理と性格の内面的な葛藤劇のみである。そこに私たちに固有の<きつさ>があるのだ。(小浜、同書、p116)
家庭内暴力はこのように、児童期において両親から身体的に離脱を果たし、また思春期において両親から心的にも離脱を果たすという人間の成長の<自然過程>に対する何らかの疎外の表現である。言いかえれば、両親から離れることの不可能性をどこかで背負わされてしまった個体が、思春期に達して性的な外部指向性を発現させるに及んで、その不可能性と外部指向性との矛盾に引き裂かれてしまった緊張状態と考えることができる。かれらは、親への暴力行為そのものによって単純に親を否定しているのではなく、むしろ親から身をもぎ離しえないことに苦悩しているのである。だからそれは、俗にいう「親のない不幸」とは対極的にあるもうひとつの不幸のかたちである。(小浜、同書、p116)
**
*****
********************************************