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コンラッド ロード・ジム

2017年1月10日 火曜日

コンラッド ロード・ジム 柴田元幸訳 河出書房新社 2011年 (池澤夏樹個人編集・世界文学全集III-03、原作は1900年)

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彼は私に話していたのではなかった。私の前で、見えない人格と議論を戦わせていたのだーーー己れの中の、自分と敵対する、しかし不可分の相棒、己れの魂を等しく所有しているもうひとつの存在を相手に。これはとうてい、法廷の尋問などで扱いうる事柄ではない。それは生の本質をめぐる微妙にして重大な論争であり、裁判官などお呼びではなかった。彼が求めていたのは同胞であり、助けてくれる人間であり、共謀者だった。私は自分が巧みに巻きこまれてしまう危険を感じた。(コンラッド、同書、第八章、p103)

すべての真実に潜む因襲の嘘と、嘘が本質的に有している真実とを見据えるよう私は強いられていた。彼は一度にあらゆる側面に訴えていた。我々人間の中の、恒久的に昼の光に向いている面と、月のもう一方の半球のごとく、恒久的な闇に包まれてひそかに存在し、時おりおぞましい灰色の光が端の方に注ぐばかりの面とに、彼は私の心を揺さぶった。(同、p104)

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(スタイン)
「よくわかります。理想主義者(ロマンチスト)なんですね」
病気を一言で診断してくれたわけだ。はじめ私は、そのあまりの単純さに愕然としてしまった。(同、第二〇章、p231)

彼(スタイン)は悔やむように首を横に振った。「そのうちいくつかは、もし実現できていれば本当にすてきだったでしょうよ。おわかりですか、いくつあったか? ・・」(同、p237)

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災いなるかな、逸(はぐ)れてしまう者たちよ! 人が存在するのは、人同士寄り集まっている限りにおいてでしかない。ジムもある意味で逸(はぐ)れた者だった。寄り集まりにもしがみつかなかった。だが彼はそのことを、この上なく強烈に意識していたのであって、強烈に生きられた人生がその人間の死を一本の木の死以上に心打つものにするのと同じに、そうした強烈な意識が彼を心打つ存在にしていた。(同、第二一章、p244)

けれど私は、どうもそこまで嬉しがれずにいる。私は自問する。あの躍進によって、ジムは本当に、彼を包んでいた霧から抜け出せたのか?・・それに最後の言葉もまだ言われていない。たぶん永久に言われることはあるまい。生涯をとおして、私たちは当然のごとく、唯一、そしてつねに、その十全なる一言のみをめざしてたどたどしく言葉を連ねていく。だが人生は、そんな一言に行き着くにはどう見ても短すぎるのではないか? ・・最後の言葉を言う時間などありはしない。(同、p245-246)

率直に言って、私が不信の念を抱いているのは、私の言葉ではなく君たちの心だ。もし君らが、肉体に糧を与えるために想像力を枯渇させてしまっていなければ、私としても雄弁になれるだろう。(同、p246)

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・・あたかも、その未完結の物語の最後のイメージが、物語の未完結性それ自体が、そして語り手の口調そのものが、議論を空しいものにし論評を不可能にしたかのようだった。・・だが、これらの聞き手の中で、物語の結末を聞くことになった男は一人だけだった。・・マーロウの直立した、角張った筆跡で宛先の書かれた、分厚い小包で送られてきたのである。(同、第三六章、p366)

(ジムの父が寄こした手紙で・・)「一度でも誘惑に屈する者は、その瞬間、底なしに堕落し永遠の破滅に至る危険を冒す」ことを「愛しいジェームズ」が決して忘れぬよう父は願っている。(同、p371)

父親の当たり障りのないお喋り
・・彼らの許には何もやって来ない。彼らは決して不意を衝かれないし、宿命と格闘する破目になったりもしない。・・それら悩みを知らぬ人影たちに混じって誰にも顧みられず立っている。物々しい、ロマンチックな、だが決して何も言わぬ姿は薄暗いーーー雲のかかった身。(同、p371後半)

補註 キリスト教の衣を纏った上位自我からの声は、人間に普遍的な「良心」とは本来は別のものである。

「雲のかかった」中なので断言はできないが、善良なる父からのアドバイスが、重い責めを強いる上位自我へと化けて、子を苦しめることーーーそれは大いに考えられる。

 親鸞の目から見れば、善人が往生することの難しい、その一つの例示である。

 私たちは、上位自我からの命令(たとえば「キリスト教的良心)」と、人間がもともと備え持つ脳の機能としての「事実認識層の光」(補註##)とを明確に分けて受けとめるべきだろう。

補註## 以前のこのブログページに紹介した不生庵さんの考え方:

いわゆる「良心からの声」よりも、「事実認識層の光」の方が人の心の生理的仕組みをより正確に表せていると、私は思う。「良心」という複合的な呼び名を避けて、不生庵さんの提唱される「事実認識相の光」の照合作用と呼んだ方が明確になる。

良心や罪悪感の根原:事実認識層の光 2015年4月15日の当ブログページ参照。
また、オリジナルの不生庵さんの2015年4月13日付け・安心と不安(2)          http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/13151963.html をご参照ください。

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補註 今回は新訳で第三六章までを読み進めた。残りの100ページ足らずを一挙に読み進めたいところだが、老眼の障害のため思うに任せない(速く読めない・続けて読めない、云々)。今夕はすでに18時になろうとしているが、今日中にHs大学図書館に本を返却しなければならない。これから大学の試験期間中に入るためか、私たち部外者はしばらくは図書館を利用することができず、次の利用には2月初めを待たなければならない。
 英語版で読み進めることも考えている。ざっと我が本棚を見渡したところ、Lord Jim を見つけられなかった。代わりに、「ハックルベリー・フィンの冒険」は2冊も見つけてしまった・・残念。
 これからは電子書籍の時代であるとは思うものの、1)往々にして紙の本よりも重い、2)ページをめくって目的に到達するのが難しい、など、いくつかのハードルを容易には越えられず、移行できていない。紙の本同様、(たとえ活字を大きくすることが容易であるにせよ)老眼には読みにくいことに変わりはない。
 ・・ともかくこれから、借りた本を返却してこよう。今日は寒波が襲って、マイナス10度を下回るきびしい寒さである。(2017年1月12日追記)

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