2023年1月24日 火曜日 曇り時々雪
ドストエフスキー 亀山郁夫訳 カラマーゾフの兄弟2 光文社古典新訳文庫 2006年(原作は1879-1880年)
・・俗世では、いよいよ人類への奉仕、兄弟愛、人間たちの一体化といった思想が消滅し、じつのところ、そうした思想は、嘲りすら浴びせかけられているありさまなのだ。自分が思いついた数限りない欲求を満たすことに、これほど慣れきってしまった以上、この囚われ人はどうやってその悪習を振りはらい、どこへ向かうというのか? 孤独のなかにとじこもる人間には、全体など何の用もなさない。こうしてものを貯めこめば貯めこむほど、喜びはいよいよ少なくなるという結果に行きついてしまった。(ドストエフスキー、同訳書、p438)
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・・俗世は自由を宣言した。・・では、彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか! なぜなら俗世が説いているのは、こういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい、君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。
では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか? 富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨み(うらやみ)と殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。
彼らはこうも説いている。世界はこの先ますます一体化し、兄弟の結びつきが強まるだろう、ましてや距離がちぢまり、思想は空気をつたって伝達される時代なのだからなおさらのことだ、と。
ああ、こうした人間同士の一体化など、けっして信じてはいけない。自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自由の本質を歪めている。なぜなら彼らはそこに、数多くの無意味でおろかな願望や習慣、このうえなくばかげた思いつきを産み落としているからだ。彼らはただ、おたがいの羨みや欲望、虚栄のためにだけ生きているにすぎない。・・・(中略)・・・
みなさんにお聞きしたい。そうした人間がはたして自由だといえるのか? (ドストエフスキー、同訳書、p436-437)
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