出口治明 知略を養う戦争と外交の世界史 世界を動かした交渉の5,000年史 オーディブル版 第六章 ピョートル一世の強運がロシアを北の大国に押し上げたニスタット条約
補註: オーディオブックで視聴中。ウェストファリア条約(1648年)である程度落ち着いたはずと思いきや、ヨーロッパの戦争は延々と続く。大北方戦争(1700-1721年)は、バルト海の覇権を巡ってのスェーデンとロシアの戦いではあるが、地図を見てもわかるように、オスマン帝国(アフメト3世)を撒き込んでの黒海・アゾフ海沿岸の地域まで拡がる広汎な戦場で繰り広げられた。こうなると領土を侵掠したのか取り返したのか、取り返したのを取り返されたのか、云々・・その区別は非常に分かりにくい。そんな区別で領土や国境を考えること自体が間違っている可能性が高い。国民国家といった概念も無かった時代の君主同士の戦争であるのだから。
そして2023年1月現在、この黒海沿岸地域では、2022年2月から始まったウクライナ戦争が続いている。この戦争においては隣国ポーランド(NATO加盟国)が関与を強めているのが、私には大変に気になるところである。
**
以下の画像と文はすべてウィキペディアからの引用。<以下引用>
大北方戦争(だいほっぽうせんそう、スウェーデン語: Stora nordiska kriget、ロシア語: Великая Северная война、ポーランド語: III wojna północna、デンマーク語: Den Store Nordiske Krig、ドイツ語: Großer Nordischer Krieg、英語: Great Northern War、1700年 – 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧、中欧、そして東欧における重要な画期となった。
戦争はスウェーデンの敗北で終わり、ロシアがバルト海における新たな列強国となり、ヨーロッパ政治における新しい重要なプレーヤーとなった。正式な講和はスウェーデンとハノーファー、プロイセンとは1719年のストックホルム条約、デンマークとは1720年にフレデリクスボー条約、ロシアとは1721年にニスタット条約がそれぞれ結ばれている。 これによって、スウェーデンはフィンランド、ズンド海峡、スウェーデン領ポメラニアの北部を除くすべての領土を割譲させられ、 ホルシュタイン=ゴットルプ公領との関係は断たされた。ハノーファーはブレーメン=フェルデンを獲得し、ブランデンブルク=プロイセンはオーデル川河口域を併合し、ロシアはバルト海地方をデンマークはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを確保している。スウェーデン絶対君主制はカール12世の死によって終焉し、自由の時代(Frihetstiden)が始まった。一方、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラトル)の称号を贈りロシア帝国となった。
北方戦争は、後に文化人や軍人の研究材料として取り上げられている。ヴォルテールやクラウゼヴィッツによるものが有名である。
**
カール12世
生涯独身だったため、王位は妹のウルリカ・エレオノーラが継承した。大北方戦争はカール12世の死後も継続し、スウェーデンはイギリスの後ろ盾で抵抗を続けていたが、ロシア軍のスウェーデン本土への攻撃は続き、ストックホルムへの上陸戦では撃退したものの、1720年のグレンガム島沖の海戦でのロシア海軍への敗北及びロシア軍の波状攻撃の前に屈して和睦に傾き、1721年のロシアとのニスタット条約によって完全に終結した。これにより、スウェーデンはバルト海の権益を失い、大国の地位から転落した。この出来事と前後して、1720年に王権を制御しようとする議会に反発してウルリカ・エレオノーラが退位、夫のヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒに譲位してフレドリク1世が即位した為、絶対王政も終焉、立憲君主制が始まった。
**
アフメト3世
大北方戦争ではスウェーデン王カール12世とロシアのツァーリ・ピョートル1世がバルト海の覇権を賭けて衝突、オスマン帝国は1708年からスウェーデンとロシアそれぞれから味方に加わるよう要請されていた。ロシアとはアゾフを巡る確執があり、スウェーデンがウクライナ・コサックのヘーチマン・イヴァン・マゼーパを味方に付けたことを知ると主戦派がスウェーデンの同盟を主張したが、アフメト3世は同盟を拒否、ロシアがレスナーヤの戦いでスウェーデン軍を弱体化させ、ウクライナ・コサックの多くがマゼーパを見捨てロシアに留まると消極的になり、1709年に属国のクリミア・ハン国にロシアの敵対行為禁止を命じて中立化した。
しかし7月、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世が南ロシアから黒海経由でオスマン帝国に亡命すると、アフメト3世はモルダヴィアのベンデルに迎え入れたが、ロシアの徹底抗戦を主張するカール12世とフランスのオスマン帝国駐在大使の宮廷工作で主戦派が対ロシア戦争を主張した。それでも大宰相のチョルルルは戦争に反対していた。スウェーデン側はチョルルルが賄賂を貰っていると非難した。結局1710年チョルルルは大宰相を解任され、アフメト3世はピョートル1世の侵攻に対抗するため1710年に宣戦布告した。
属国の1つであるモルダヴィア公ディミトリエ・カンテミールとワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌが帝国から独立を企てており、ピョートル1世と結んでロシア軍と合流したが、ロシア軍の侵攻に対し1711年にプルート川で勝利(プルート川の戦い)、直後に結ばれたプルート条約でアゾフをロシアから返還してロシアを黒海から締め出した。属国の反乱も鎮圧され、カンテミールは所領を失いロシアへ亡命、ブルンコヴェアヌはオスマン帝国に捕らえられ処刑された。
しかし、戦闘中にピョートル1世を捕える機会があったにもかかわらず、プルート条約の締結によって講和が成立し、ピョートル1世を逃してしまう。また、締結後もロシアとの戦争を促すカール12世とも確執を深め、スウェーデンとの同盟は解消され1713年にカール12世をエディルネ近郊へ移した。翌1714年にカール12世はオスマン帝国からスウェーデン領ドイツへ移動してスウェーデンへ帰国したが、不在の間に劣勢となった戦局を覆せず戦死、大北方戦争はスウェーデンの敗北となっていった。
**
*****
*********************************
*****
*********************************