catastrophe

コロナウイルス危機から始まる金融破綻

2020年3月15日 日曜日 晴れ 

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 補註: 開戦日覚え書き: 今回のコロナウイルスの影響・・・昨日、久しぶりに札幌中心部を訪れたところ、ホテル・ツバキ(旧ルネッサンスホテル)が全館休業しているのを知った。3月9日から4月9日まで全館休業の予定。今日は、札幌の三越と丸井今井(デパート)が3月15日に全館休業して消毒するという。3月16日から営業再開の予定、とのこと。コナミスポーツクラブは3月3日から19日までの長期閉館中。人々が働けない(経済活動できない)状況なのだから、その影響は計り知れない。

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D. サダヴァ他著・石崎泰樹&斎藤成也監訳 アメリカ版 大学生物学教科書 第5巻 生態学 講談社ブルーバックスB1876

・・もし人口が地球の環境収容力を越えたら、結局は人口は減少するだろう。もし一個人当たりの出生率を減らし続けるのならば、人口減少を意図的に実現できるだろう。そうでなければ、黙示録(もくしろく)の馬に乗った騎士(戦争、飢饉、疫病など)が死亡率を増加させることによって維持可能な人口サイズにまで減少させるだろう。(同書、p91)

補註: 本書の監訳者の石崎先生は私の大学時代の同級生である。懐かしい! 今は群馬大学の医学部で教授をなさっていらっしゃる。またいつかお目にかかって、ゆっくりと語り合える日があればよいと願っている。

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コロナウイルス危機を機縁とした金融破綻と世界恐慌:

史上最大の金融破綻(2) 田中宇さんの【2020年3月15日】付けの記事より(補註:これは会員のみ閲覧できる有料記事です): 中央銀行によるQEが効いたとしても、ウイルス危機による実体経済の世界的な停止はまだまだ続く。だれもリスクを取りたくない。企業活動の停止が続くと、企業は資金が足りなくなり、起債した社債を償還できず破綻・デフォルトし、それが連鎖して社債のシステム危機が起きる。実体経済の復活の見通しが全くないので、社債市場の崩壊はほぼ不可避だ。

人類の7割が感染し2年以上続くウイルス危機 田中宇さんの2020年3月11日付けの記事より(補註:これはだれでも無料で見られます) 独米英での予測を総合すると、ワクチンなど予防策がない限り、人類の40-80%が新型ウイルスに感染する。・・感染しても80%は無発症か、ごく軽症だ。感染者のうち残りの20%(人類の12%前後)が中程度から重篤に発症する。中程度以上の発症者の25%、つまり人類の3%前後、感染者の5%前後は入院が必要になり、入院者の10%(人類の0.3%)が死亡する。致死率は人類の0.3%、感染者全体の0.5%ほどになる。

史上最大の金融破綻になる 田中宇さんの2020年3月11日付けの記事より(補註:これは会員のみ閲覧できる有料記事です)・・ 「日本のこれまでの株価上昇の理由の99%は日銀のステルスQEによる買い支えだ。・・問題は、・・日本の当局が、円高と米国バブル救済の両方を満たす策として、公的年金基金や郵貯銀行などに、米国の(これから暴落が加速する)社債のたぐいを大量購入させようとしていることだ。日本の年金は自滅させられる。(<以上、引用終わり>)

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補註: ナオミ・クラインの「ショックドクトリン」については、またいつか別の視点で取り上げたいと思う。

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スペイン風邪と比較 鐸木さんの2020年3月14日付けの記事から以下引用。

https://nikko.us/20/034.html COVID-19は当初SARSやMERSと比較されていたが、それよりも100年前のスペイン風邪と比較したほうがいいのではないかという気がしてきた。スペイン風邪は日本国内では致死率が1%程度だったが、感染力が強く、当時の世界人口の約3割に当たる5億人が感染した。世界での死者数は2000万人~4500万人といわれている。英独米の最悪シミュレーションも、このスペイン風邪をモデルにしているようだ。スペイン風邪に対しては、結局有効な対策ができないまま、感染して治癒した人(生き延びた99%の人)が集団免疫を持つことで、その後の大量死が収まった。COVID-19もそういう風になっていくのではないかと、専門家たちは冷静に判断しているということなのだろう。

同じく、鐸木さんの3月15日付けの記事から: またまたCOVID-19の話か……とうんざりされそうだが、何年かして読み返すためにやっぱり記録しておこう。原発爆発後のことも、私自身、あのときどう感じ、どう行動したのか、記憶が薄れているので、たまに当時の日記を自分で読み返して記憶を新たにしている。記録は生々しい内に残したほうがいい。<https://nikko.us/20/035.html より引用終わり>

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コロナウイルスの現状とこれに対する対処法に関しては、上記の鐸木さんの記事や、以下の武田さんの本日付けのブログ(音声記事)などを

ご参照下さい。: http://takedanet.com/archives/1077113309.html 

補註: 武田さんも早くから指摘されているように、今回のコロナウイルスに関しては、例年のインフルエンザの流行などと比べて、それほど感染者数が多いわけではなく、致死率が際だって高いわけでもない。淡々と受けとめ、通常の注意深さをもって粛々と物事を通常運転させてゆけばよかった。そうであったにも関わらず、日欧米の政府・マスコミなど「世界中」が過剰に反応して騒いでいる状況である。普通に考えると、本当に不思議な事が今まさに進行している。

日本の首相が3週間にも及ぶ子供たちの学校の休校を要請した2月終わりのあの日、「いけない、終わりの見えにくい戦争に入ってしまった」と思った。終わり方(=出口)をキッチリと決めて(見通して)からでないと、戦争を始めては(=入口から入っては)いけない、というのが開戦決意時の鉄則である。たとえばインフルエンザの流行時に学級閉鎖が役立つか否かに関しては、「クラスの20%が休んだ時点で、そのクラスを6日間学級閉鎖すると優位な効果あり」という研究結果が出ているとのこと。(上記、武田さんのサイトをお聴き下さい。) 今回のコロナウイルス感染が日本中のどの学校でも一クラスたりと流行してはいない段階で、全国一律で3週間(春休みを含めれば〜6週間)という長期の閉鎖を首相が勧告する形には、本当に驚かされた。首相や政界・マスコミに迷い・逡巡といった気配の漂いが感じられず、しかも世界(主に日欧米)と歩調が合っていることからも、科学的理性とは別の、日本人の考えとは別の世界的な意図が、私たちの住む世界を或る別の方向にもっていこうとしているのがわかる。

その方向とは何か? 方向というよりも、それは大きな「混乱・激震」というべきものであろう。どのような経過を辿ってどこに落ち着くかは、予測できない。ただ一つ言えることは、多くの人々の予測が大きく外れるだろう、という「不確実性」である。それが大揺れの性質である。

そしてもう一つ、恐らく正しいと言えることは、何年かあるいは何十年か先には、この混乱や大揺れは収まっており、人々の平穏な暮らしが戻っているだろう、ということである。例外なくほとんどすべての人が(そしてもちろんこの私も)この大揺れに曝され、本当に大きく苦しむであろう。それは大変に残念だし可哀想だし苦しいことだ。が、生き延びることができさえすれば、その先にはこの平穏が訪れるのである。だから、できるだけ今まで通り、(先にも述べたとおり)淡々と受けとめ、通常の注意深さをもって粛々と物事を(できる範囲で)通常通り進めてゆく、そんなふうにこれからも生きていく、というのが私たちの取るべき心構えであろう。

後世の歴史家がこの時期をどのように描くであろうか。(以上、補註200315HH)

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http://fushinohito.asablo.jp/blog/ 西谷修「言論工房 Fushino_hito」2020/03/14の記事「開戦日覚書き」より、以下引用。

だから資本主義は、経済の問題ではなく欲望の問題である。 
 その欲望には伝統がある。西洋キリスト教社会の伝統だ。西洋による「世界化」によって、この考え方の枠組みは普遍的=世界的なものとなった。最初に言明したのはアウグスティヌスである。それが宗教改革によって鋳直され(ルターもカルヴァンもこのキリスト教思想の定礎者に立ち戻る)、ライプニッツによって世俗世界と結節され、パスカル等を通して「欲望」と「自由」と「市場」の三位一体を近代思想として編み上げ、それと同時に社会に制度的に実現されてゆく。<http://fushinohito.asablo.jp/blog/ より引用終わり>

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補註: 冒頭に引用した D. サダヴァ他著の「生物学」Principles of Life 教科書の記述の癖について: とても良い教科書だと思います。ただ、些細なこととは思いますが、この本に見られる著者たち(翻訳者ではありません)の文章スタイル(言葉の綾、あるいは筆の癖というべきものでしょうか)について若干の苦言を呈したいと思います。

本書のようなごく普通の大学生向きの教科書に、ことさらに黙示録の「馬に乗った騎士」を引用してくる著者(D. サダヴァ他の諸氏)に、私としては抗議したい。著者は、たとえば信念としてヨハネの黙示録を受け入れているのかもしれない。あるいは単なる衒学スノビズムの性癖かもしれない。私は、個人の思想信条に立ち入る意図はない。しかし、生物学という科学の記載には、最大限の注意と努力を払って、このようなバイアスのかかった表現を廃して欲しいのである。教科書であればなおさらである。

そして「もし一個人当たりの出生率を減らし続けるのならば、人口減少を意図的に実現できる」という表現にもひっかかりを感じる。「意図的」なのは、だれか? もし、ひとりひとりの女性が、自由な意志をもって妊娠出産を行わない・ないし減らす、ということであれば、意図的なのは個々の女性である。しかし、外の事情、たとえば貧困、将来への不安、生活・職業その他の社会的事情、その他たとえば上記の馬に乗った騎士(戦争・飢饉・疫病)などの現実とその不安など、もろもろの外的事情によって、女性が、やむを得ない状況判断ないし外部からの有形無形の強制をもって妊娠出産を行わない・行えない、ということであれば、意図的なのは個々の女性ではない。敢えてそれを「意図的」と称すならば、意図している者らを明示すべきかと思う。著者の本意が如何なるものであったかは曖昧である。しかし、いずれにせよ、このようなバイアスのかかった表現は教科書では努めて遠慮して欲しい。

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