2016年1月12日 火曜日
中嶋隆蔵 「荘子 俗中に俗を超える」中国の人と思想5 集英社 1984年
言葉を離れ分別を捨て、「道」を求める我れも、我れが求める「道」も、すべて忘れ去られ、有るということも、無いということもひとしく消え失せたところに、はじめて「道」が姿なき姿を現し、働きなき働きを現す、という「道」のありようをふまえたうえで、こころみに妄言するから妄聴せよ、と断りつつ、「道」について語り、「道」を知った人について語りかけてくるのが、荘周であり、「荘子」である。妄言の記録を集積して成った「荘子」は、したがって、理路整然とした構成とは程遠い書物である。(中嶋、同書あとがき、p260)
「道」を知った者でなければ、とても妄言することはできない。ひたすら「道」を求めているものでなければ、妄聴することはできない。「道」と無縁の者には、わずかに一つの方法が残されているだけである。妄言を妄聴した結果、その根本を理解できたと考える人々が著した注釈にそって、注釈者の妄聴ぶりをたどることであろう。陸徳明(りくとくめい)の指摘が事実なら、あくまで方内に在りながら方外に超え出ることを目指した郭象の注釈は、六朝時代の荘子注釈の白眉である。そのなかには、論旨の一貫をはかるあまり、無を有となすような我田引水の論が、かなり見受けられる。しかし、縦横無尽、とりとめがない「荘子」を相手に、郭象が、荘周は、天地・万物・死生のことわりを見透かし、造物者のことさらなる働きのないところ、ものそれぞれは、おのずとその生を全うする、という「内聖外王の道」を説いたのであり、その記録が「荘子」である、とする立場から、一貫した注釈を施そうとしているのは、すこぶる迫力に富む。(中嶋、同書あとがき、p261)
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補注:
方外 ほうがい 世俗の外(白川、字通、p1440)
方内 白川さんの字通には方内(ほうだい)/国内(白川・字通・p1441)との意味しか見いだせなかったが、ここでは方外と対になる言葉なので、方外の対偶(=俗中)ということになろうか。
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