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そもそもフョードルは殺されるべき父親なのか?

2020年5月8日 金曜日 晴れ(暖かいうららかな春の日。満開だった庭の桜がいつの間にか葉桜に。)

亀山郁夫 ドストエフスキー父殺しの文学(下) NHKブックス1008 2004年

「カラマーゾフの兄弟」における父殺しの意味を考えるうえで、最初に浮かびあがる疑問点の一つは、そもそもフョードルは殺されるべき父親なのか、という問いです。「罪と罰」の金貸し老婆殺しがついにラスコーリニコフの良心を苛む棘となりえなかったように、かりにフョードルが死に値する唾棄すべき存在なら、なぜスメルジャコフは自殺し、イワンは発狂するのでしょうか。(亀山、同書、p244)

スメルジャコフもまた、「偶然の家庭」で生を享けた犠牲者の一人でした。ここでは、鞭身派と去勢派が意識的に混同されています。・・・(中略)・・・料理人とはまさに「犠牲を執り行う者」を意味します。すなわち、象徴レベルにおいては、フョードル・カラマーゾフを生贄にする者となります。料理番はじつはカラマーゾフ家の「政治的な生活」すなわち運命を牛耳っているともいえるのです。・・ナポレオンかぶれの彼に、ラスコーリニコフ顔負けの驚くべき傲慢さが宿っていることに注意しましょう。・・・(中略)・・・こうして、支配、被支配の関係が、一つの作品内部に象眼細工のように嵌めこまれ、幾重にも交錯し、反転しあっているのが、「カラマーゾフの兄弟」なのです。この小説の面白さの一つは、まさにこの関係性の謎解きにあると感じています。(亀山、同書、p244-245)

・・イエズス会士をスメルジャコフに重ねあわせようとしたドストエフスキーはそこに確実に時代の空気を感じ取っていたのです。それはしかし作家がそこに神を見る民衆ないしは農民たちの謀反ではなく、それどころか、西欧の文化を根底から蝕んでいるシニシズムの浸透なのです。(亀山、同書、p246)

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