philosophy

ウソつきの構造 法と道徳のあいだ

2020年1月20日 月曜日 雪(久しぶりの降りしきる雪)

中島義道 ウソつきの構造 法と道徳のあいだ 角川新書 2019年

・・『ウソつき』とは、自分が真実を語るとソンをする(被害を受ける)状況において、適法性をもってすべての基準とし、それ以上道徳性を追求することがない者、真実に対して「尊敬」を抱くことがなく、何にせよ法的に正当化されれば、それで問題はないとする者、しかもこのことに対してとりわけ良心の呵責(補註参照)のない者、すなわち心を痛めることのない者のことである。・・・(中略)・・・法を守り、社会の規範を守り、品行方正で社会的に成熟したきわめてまともな人々であり、その人々が(広い意味での)組織と組織における自分の立場を守るために、やはり「目撃者と証拠のないところでは」真顔でウソをついてしまうのである。(中島、同書、p177、p179)

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・・こうした身体の底から湧きあがる自然の感情によって、われわれ人間は、「法に守られた外形的真実」こそ重要であると思い込もうとしても、やはりそうではないこと、内面的真実を含んだ端的な真実こそ重要であることを知っているのだ。(中島、同書、p198)

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・・法的判断は完全ではない。人間には、法よりずっと重要な道徳という領域が開かれているのだ。だから、「真実を貫いてソンをした自分は人間としてどこまでも正しく、ウソをつき通してトクをした相手は人間として最も下劣だ」と信じることにしよう。「真実」こそ人間として最高の価値であり、相手はそれを失ったのであるが、全財産を失っても、全信用を失っても、全希望を失っても、あなたはその最高の価値を失っていないのであるから。(中島、同書、おわりに、p203)

補註: ここでは、「真実」が重要である。弱者敗者がルサンチマンに陥ることには要注意、戒めなければならない。「ルサンチマン」を採用することによって、弱者敗者が逆転勝利を収める道が開けているとしても、「真実を愛する」こととは別の道〜自己欺瞞への道を辿ることになろうから。

補註: 「良心の呵責」の有無という段階の一つ前に、不生庵さんの説かれる「事実認識層の光」に照らされての「照合プロセス」段階を考えておきたい。

良心や罪悪感の根原:事実認識層の光 https://quercus-mikasa.com/archives/1873

不生庵さんは「事実認識層の光」という、端的な事実認識と主観的な思い込みによる事実認識との照合チェック機序を想定して、良心や罪悪感の依って来たるところを説明している。<不生庵さんの2015年4月13日付け(残念なことに2020年1月20日現在、不生庵さんのブログページは閉鎖されてしまっていました。)> 

補註: 本書「ウソつきの構造」の中で中島さんは強く、懲罰や復讐の気持ちを明確に打ち出すように説かれている。ものごとの真実とウソについて曖昧にせず、明確に突きつめて考えるという哲学する心に私は賛同する。それとともに、私としては、一方で、「通り過ぎよ」と贋ツアラストゥラに説くツアラストゥラの言葉を思い出さずにはいられない。

ものごとの真否を曖昧にしたまま「通り過ぎる」ことは、してはならない。一方で、いつまでも同じところに止まってゲコゲコと不平の叫びを叫ぶ蛙でありつづけることも良いことではない。

人生の不条理、人間の(あるいは広く動物界の生物が持つ)「根本悪」を真実として厳しく見極めながら、なおかつ、ウソをつくのを是として生きるでもなく、復讐実現に執念を持って命の炎を燃やし尽くすまで闘うのでもなく、第三の道を進むことはできないものだろうか。弥陀の本願という言葉が私の頭に浮かぶのである。が、ここへの道が安直な曖昧な飛躍、言葉だけの安易な道であってはならない。そう戒めている。

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