culture & history

古代、国と国との間は不分明だった

2016年2月28日 日曜日 晴れ(快晴)

小林惠子 二つの顔の大王 倭国・謎の継体王朝と韓三国の英雄たち 文春文庫 1995年(オリジナルの単行本は1991年文藝春秋)

このように、史書からだけみても、日本で生まれた百済王子(嶋)が帰国して百済王(武寧王)となる等、あえて想像力を働かさなくとも、現代、我々が漠然と考えている以上に、当時は国と国との間は不分明だったのだ。(小林、同書、p122)

欽明の夢の条からみると、欽明も(後に聖徳太子の近臣になる、秦川勝の一族の)大津父(おおつち)の助けを借りて倭王になった人である。逆に言えば、大津父の助けを借りなければ王位につけなかったともいえる。(小林、同書、p123)

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当時、高句麗は陽原王の時代であるが、翌年の陽原王一〇年(五五四)に、冬、熊川(津)に百済を攻めて勝てず、同年一二月に日食があったと「百済本紀」にみえる。 日蝕は「隋書」(志一五 天文中)に「日蝕は陰が陽を侵し、臣が君主を掩う象であり、国が滅び、君主が死ぬ」とあるように、太陽を君主に比定し、君主に不幸があることを暗示する天変である。 「書紀」は、このように、日本以外の外国の事件を三国の史書以上に、詳しく記載しているのが特徴であるが、欽明朝のように、王が倭国と三国のどこかとを兼任している場合は、当然ながら、殊に、その傾向が強いのである。 高句麗が百済に勝てず、日食があったと同じ年、すなわち欽明一五年(聖王三二・五五四)の百済聖王の死の前後もそうである。(小林、同書、p153)

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