2026年1月29日 木曜日 曇り
山本周五郎 さぶ 新潮文庫 (原作は昭和38年)
運不運などということは、泣き言めいているし、うんざりするほど聞き飽きた言葉だ、だが、運不運ということはあるのだ。(山本、同書、p195)
**

・・「役人というものも、世間で考えるほど安定したものではない、 ・・上役と下役の区別、煩雑な規則、それぞれの役目と権限、これらの中で人間どうしのせりあいがある、出世したい者もあれば、役得をせしめるためになんでもやろうとする者もある、袖の下の授受、人足の労賃のうわまえはね、出入りの商人との不正な取引、ーーー世間にある忌まわしいことは、ここでも殆ど欠けてはいない」(山本、同書、p281)
**
・・「どんな人間だって一人で生きるもんじゃあない」と与平は栄二の言葉を聞き流して続けた、「ーーー世の中には賢い人間と賢くない人間がいる、けれども賢い人間ばかりでも、世の中はうまくいかないらしい、損得勘定にしても、損をする者がいればこそ、得をする者があるというもんだろう、もしも栄さんが、わたしたちの恩になったと思うなら、わたしたちだけじゃなく、さぶちゃんやおのぶさん、おすえちゃんのことをわすれちゃあだめだ、おまえさんは決して一人ぼっちじゃあなかったし、これから先も、一人ぼっちになることなんかあ決してないんだからね」(山本、同書、p290)
・・どんな場合にも、人間は一人ぼっちということはないんだよ、というような意味のことだ。それにしても、世間にたてられ、うやまわれていく者には、影にみなさぶのような人間が付いている、というおのぶの言葉は痛かった。(山本、同書、p336)
**
ーーーおれは島へ送られてよかったと思ってる、寄場であしかけ三年、おれはいろいろなことを教えられた。ふつうの世間ではぶっつかることのない、人間どうしのつながりあいや、気持のうらはらや、生きてゆくことの辛さや苦しさ、そういうことを現に、身にしみて教えられたんだ、読み本でも話でもない、生身のこの軀で、じかにそういうことを教えられたんだ」・・「寄場でのあしかけ三年は、娑婆での十年よりためになった、・・ーーーこれが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を云いたいくらいなんだよ」(山本、『さぶ』、同書、p360)
**
*****

**
補註:ウィキペディアによると・・・
加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)とは、江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設である。一般には人足寄場(にんそくよせば)の略称で知られている。ここでは主に江戸石川島に設置された人足寄場について述べる。
軽度犯罪者・虞犯者に対して教育的・自立支援的な手法を取り入れた処遇を行った点が当時としては画期的だった。しかし、実態は現在でいう強制収容所に近く、後述のように問題が多々あった。
人足寄場の設置以前には、無宿者の隔離および更生対策として佐渡金山への水替人足の制度があった。しかし、水替人足は非常に厳しい労役を強いられるものであり、更生というより懲罰という側面が強かった。そのため、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設を作ることを火付盗賊改方である長谷川宣以(長谷川平蔵)が松平定信に提案し、人足寄場が設置された。 石川島の人足寄場は幕末まで存続するが、明治維新によって石川島徒場(とじょう)となった。 何度か改称した後、1877(明治10)年に警視庁管轄下の石川島監獄署となり、現在と同じような懲役刑が行われる施設ができた。その後、東京の都市化が進むと、石川島から巣鴨に移転。巣鴨監獄・巣鴨刑務所は後に巣鴨拘置所となった。東京裁判で有名な巣鴨プリズンである。
巣鴨刑務所はさらに府中市へ移転し、これが現在の府中刑務所となる。現在の巣鴨刑務所跡地には池袋サンシャインシティがある。
“江戸幕府初の”、時には“世界初の”更生計画・職業訓練専用施設と紹介されることがあるが、これより先の安永9年(1780年)に時の江戸南町奉行の牧野成賢の献策により、深川茂森町に「無宿養育所」が設立されている。
この養育所は生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保のころより住居も確保できない無宿者達が増加の一途を辿っており、犯罪の根源ともなっていた。彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直すための援助をすることによる犯罪の抑止が、養育所設置の目的であり趣旨であった。この試みはしかし、定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、この養育所の体制のいわば仕切り直しが人足寄場であり、手本・先駆けとなった。
<以上、引用終わり>
**
補註: ウィキペディアによると・・・
長谷川 宣以(はせがわ のぶため)は、江戸時代中期の旗本。寛政の改革期に火付盗賊改役を務め、人足寄場を創設した。通称は平蔵。
長谷川平蔵の名は、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。
・・
東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)。長谷川家の家督は嫡子宣義が継いだ。次男・正以は長谷川正満の養子となった。
なお、長谷川宣以の住居跡には、数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。
人足寄場の設立
長谷川宣以の名が歴史に残ったのは人足寄場の創設に貢献したことが大きい。後年定信が執筆した自叙伝『宇下人言』には、人足寄場の設置を次のように書いている。
かつ寄場てふ事出来たり、享保の比よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置き侍らばしかるべしなんど建議もありけれど果さず、その後養育所てふもの、安永の比にかありけん、出で来にけれどこれも果さず、ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ
人足寄場以前、幕府は無宿人対策として宝暦9年(1759)に江戸の無宿人達を捕らえ佐渡金山の人足として送り込む制度をはじめた。しかしこの対策にも限界があった。さらに田沼時代、安永9年(1780年)に南町奉行牧野成賢が深川茂森町に設立した無宿養育所というものを設置した。定信はこの無宿養育所について言及しているが当時は千数百人を捕らえ放り込んだが、そのうち千人以上が死んだという。定信はこれら過去の無宿人対策を参考に人足寄場の制度を考えたと思われる。そして「志ある人」を募ったところ名乗りをあげたのが長谷川宣以であった。寛政元年(1789年)そうして名乗りを上げた宣以は「寄場起立」と題した建議書を定信に提出し認められたことにより宣以が指揮をとることとなった。
・・
設置されたばかりの最初期は火付盗賊改方の長官が所管していたが、平蔵が寛政4年(1792年)に退任してからは町奉行所に属する人足寄場奉行として新たに役職が設置された。配下には町奉行所から目代として派遣された与力、同心、寄場差配人(模範的な人足の中から選抜された身寄りが遠国にいる人足の身元を引き受ける保証人の類)、医師、心学の教師、船頭等が所属していた。
幕府からの運営資金が不足したため、平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に投資しその利益を運営資金に充当、また大名屋敷跡地を有力商人に資材置き場として賃貸し借地代をも運営資金に充当する、という型破りの手段を用いざるを得なかった。

ウィキペディアによると・・・
遠山 景元(とおやま かげもと、1793年9月27日〈寛政5年8月23日〉- 1855年4月15日〈安政2年2月29日〉)は、江戸時代の旗本。幼名は通之進、通称は実父と同じ金四郎(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。職制は、江戸北町奉行、大目付、後に江戸南町奉行。
テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』および『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる。
現在の東京都港区新橋4丁目にいた
こともあったが、晩年は現在の墨田区菊川3丁目に住んでいた。
その住居はかつて長谷川平蔵が住んでいた住居であった。


<以上、引用終わり>
*****
*********************************
