culture & history

英仏が百年の戦争をしたのではなく、その百年が英仏の戦争に変えたのである。

2021年3月31日 水曜日 晴れ・暖かい陽射し

Henry VI

・・今や破竹の勢いを示すフランス王シャルル七世に、1450年にはノルマンディーを、1453年にはアキテーヌを征服されて、心中穏やかでいられなかったのは、いうまでもなくイングランド王ヘンリー六世である。(佐藤賢一、「英仏百年戦争」、p180)

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Edward IV

薔薇戦争 ・・権力闘争が王位をめぐる争いに変わり、数年に亘る戦いを経てみると、王座に君臨していたのはエドワード四世、すなわち戦没したヨーク公リチャードの息子だった。即位は1461年3月4日だが、さらにランカスター派残党の掃討に数年を擁し、64年5月のヘクサムの戦いで大方殲滅させたところで、第一次内乱は幕を下ろす。が、次なる火種はヨーク派の勝利そのものから生まれ出る。(佐藤賢一、「英仏百年戦争」、p182)

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薔薇戦争つづき(第二次内乱) ・・亡命していたヘンリー六世が、1470年10月に復位を果たした一件こそ、ウォリック伯が歴史に「キングメーカー」の名を残す所以である。が、1471年3月にはエドワード四世がブールゴーニュ公シャルルの支援で、こちらも返り咲きを果たし、そのままウォリック伯を戦死に追いこんだ。あとは寄る辺のないヘンリー六世が処刑されて、第二次内乱は終結する。(佐藤、同書、p182)

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Louis XI of France; シャルル7世の息子

・・フランス王家の「天下統一」・・・

そのものは上からの強制であり、諸侯の抵抗に見るように、下からの自発的な動きではない。が、王家が築き上げた国家の枠を基盤として、芽生え始めたナショナリズムが熟成していったことも事実である。いうなれば、フランスという既存の国が「英仏百年戦争」に勝利したのでなく、「英仏百年戦争」がフランスという新たな国を誕生させたのである。(佐藤賢一、「英仏百年戦争」、p179)

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薔薇戦争つづき(第三次内乱) 1485年8月22日、ボズワースの戦いでリチャード三世を討ち果たし、同日にリッチモンド伯はイングランド王として「ヘンリー七世」と称した。いわゆる「テューダー朝の成立」である。ここに三十余年の内乱は終結をみたと、以上が「薔薇戦争」の粗筋だが、ひとつの疑問が浮上せざるをえない。これで、どうして終結してしまうのかと。(佐藤、同、p183)

補註: リチャード三世とボズワースの戦いについては以前にも紹介している:

・・答えは単純明快に、もう「キングメーカー」がいないからだった。・・これらの家系がフランス人を相手にするのではなく、イングランド人とイングランド人が殺し合う内乱で、すっかり断絶してしまうか、あるいは疲弊して力を失していたのである。・・フランス王のように意図して諸侯を掃討したわけではないが、結果として王の一人勝ちになる図式はイングランドでも変わらなかった。かくて絶対王政に傾斜する王家は、より強固に国家の枠を築き始め、その内側でイングランドのナショナリズムも熟成されていく。(佐藤、同書、p184)

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・・英仏が百年の戦争をしたのではなく、その百年が英仏の戦争に変えたのである。(佐藤、同書、p189)

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