読書ノート

リチャード3世・ボズワースの戦い、 Richard III the last English monarch to die in combat.

2020年12月9日 水曜日 札幌は曇り

君塚直隆 物語 イギリスの歴史(上) 中公新書 二〇一五年

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His opponent Richard III, the last king of the House of York, was killed during the battle, the last English monarch to die in combat. Historians consider Bosworth Field to mark the end of the Plantagenet dynasty, making it one of the defining moments of English history.

補註: ボズワースの戦い・・https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bosworth_Field を参照。

 Lord Thomas Stanley and Sir William Stanley also brought a force to the battlefield, but held back while they decided which side it would be most advantageous to support. Richard divided his army, which outnumbered Henry’s, into three groups (or “battles”). One was assigned to the Duke of Norfolk and another to the Earl of Northumberland. Henry kept most of his force together and placed it under the command of the experienced Earl of Oxford. Richard’s vanguard, commanded by Norfolk, attacked but struggled against Oxford’s men, and some of Norfolk’s troops fled the field. Northumberland took no action when signalled to assist his king, so Richard gambled everything on a charge across the battlefield to kill Henry and end the fight. Seeing the king’s knights separated from his army, the Stanleys intervened; Sir William led his men to Henry’s aid, surrounding and killing Richard. After the battle, Henry was crowned king.

補註・・というわけで、この戦いでリチャード3世を(この戦場で裏切ったのは、戦わなかった the Earl of Northumberland(ただし、別の説もあり、以下の補注参照)そして直接手を下した Lord Thomas Stanley and Sir William Stanley のStanleys。戦場から逃げた一部の Norfolk’s troops も弱腰だったのかもしれない(Duke of Norfolk  はこの戦いで戦死)。

補註: John Howard, 1st Duke of Norfolk  (c. 1425 – 22 August 1485), was an English nobleman, soldier, politician, and the first Howard Duke of Norfolk. He was a close friend and loyal supporter of King Richard III, with whom he was slain at the Battle of Bosworth in 1485.  補註: ただし、彼 John Howard, 1st Duke of Norfolk の子孫は繁栄:Howard was the great-grandfather of Anne Boleyn and Catherine Howard, the second and fifth Queens consort, respectively, of King Henry VIII. Thus, through Anne Boleyn, he was the great-great-grandfather of Elizabeth I. After his death his titles were declared forfeit by King Henry VII, but his son, the 1st Earl of Surrey, was later restored as 2nd Duke (the Barony of Howard, however, remains forfeit).  https://en.wikipedia.org/wiki/John_Howard,_1st_Duke_of_Norfolk

補註: Henry Percy, 4th Earl of Northumberland  (c. 1449 – 28 April 1489) was an English aristocrat during the Wars of the Roses. After losing his title when his father was killed fighting the Yorkists, he later regained his position. He led the rear guard of Richard III‘s army at the Battle of Bosworth, but failed to commit his troops.

He commanded the Yorkist reserve at the Battle of Bosworth Field on 22 August 1485. Percy never committed his forces to the battle. His inactivity played an important part in the defeat and death of Richard III. Historians suspect him of treason in favour of victor Henry VII of England, although there is an alternative theory that his forces, placed behind those of King Richard, were in no position to take part in the battle before Richard was killed. https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Percy,_4th_Earl_of_Northumberland

リチャード3世

Richard III, by an unknown artist, late 16th century. The raised right shoulder was a visible sign of Richard’s spinal deformity. (https://en.wikipedia.org/wiki/Exhumation_and_reburial_of_Richard_III_of_England より引用)(補註:この肖像画は一六世紀後半に描かれたものなので、一四八五年に戦死した本人を見て描いた写実的な肖像画ではないはず。)

リチャード3世の直近先祖の系譜

補註 上の表が正しければ、リチャード3世のミトコンドリアDNAは曾祖母のキャサリン・スウィンフォードから、Y染色体は曾祖父のヨーク公エドマンドからもらっていることがわかる。曾祖父のジョン(ランカスター家の祖)とヨーク家のエドマンドがともにイングランド王エドワード3世の同母の子であることがミソである。ランカスター家が赤バラ、ヨーク家が白バラ。

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補註 ウィキペディアによると・・・<以下引用>

1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒された。

死後・・・詳細は「en:Exhumation of Richard III of England」を参照 https://en.wikipedia.org/wiki/Exhumation_and_reburial_of_Richard_III_of_England

補註(2021年3月31日追記): 発掘されたリチャード三世の遺骨の画像を見ると、確かに強い胸椎湾曲が見られる。「また脊柱に強い脊椎側彎症が確認され、従来悪評を補強するための偏見とも考えられていたリチャード3世のせむしが事実であった可能性が高いことを示した。(ウィキペディア(Wikipedia)から引用)」・・・ただし、だからといってシェイクスピアが描くような人物だったという証拠にはならない。シェイクスピアにとっては、ヘンリー五世がイングランド王のベスト偉人となっており、リチャード三世はニアリーワーストに描かれているのではある。が、<以下、佐藤賢一「英仏百年戦争」集英社新書より引用、同書、p21>・・「シェークスピアの史劇ならずとも、要するに、なべて歴史はフィクションである。事実の断片を集めては、それぞれの意図と利害で、後世の人間が勝手に意味づけするからである。なんの意図も利害も持たない人間からすれば、それは不公平で、卑劣で、ときに滑稽な態度にすら見える。が、そうして一方のシェークスピアを笑うなら・・」<以上、引用終わり> ならば、私は、できれば、リチャード三世の名誉ある復権も試みて欲しいと思う者である。たとえば、伊達騒動・・山本周五郎「樅ノ木は残った」のように。(以上、2021年3月31日・補註者追記終わり)

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評価・・・

2015年までリチャード3世の墓とされたレスター大聖堂のリチャード3世の墓碑。「1485年8月22日にボズワースにて殺害されたイングランドの王、リチャード3世」と刻まれている。

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発掘されたリチャード3世の遺骨(2012年)

リチャード3世はウィリアム・シェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として稀代の奸物に描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン (Ricardian) 」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。1980年代以降には以下のような作品がある。* ジーン・プレイディー “The Sun in Splendour” (1982年)、”The Reluctant Queen”(『リチャード三世を愛した女』 1990年)* Sharon Kay Penman “The Sunne in Splendour” (1982年)* Sandra Worth “The Rose of York” シリーズ (2003年 – 2007年)ただし、デヴィッド・スターキーのように著名な歴史家が「甥殺しのあの悪人」と書くなど、評価はいまだ分かれている。2002年、BBCが発表した「100名の最も偉大な英国人」では82位に選出された。

遺体2015年に改葬されたリチャード3世の墓。ヨーク家の紋章と「リチャード3世」の名、「忠誠が我を縛る」のモットーが刻まれている。また白い猪の幟が飾られている。


2012年9月5日、古い時代の遺骨が、記録された埋葬場所と一致するレスター市中心部の駐車場の地下から発見された。この発見に「530年ぶりに駐車場の下から悪名高い王の遺体が見つかる」と大きく報じられた。遺骨は頭蓋骨に戦闘で受けたとみられる複数の傷があり、また脊柱に強い脊椎側彎症が確認され、従来悪評を補強するための偏見とも考えられていたリチャード3世のせむしが事実であった可能性が高いことを示した。遺骨発見に大きく貢献した歴史家のジョン・アッシュダウン・ヒル博士によって探し出されたリチャード3世の姉アン・オブ・ヨーク(en, 1439年 – 1476年)の女系子孫(カナダ人マイケル・イブセン)のミトコンドリアDNA鑑定をレスター大学が行い、2013年2月に遺骨をリチャード3世のものと断定した。また、同チームは遺骨からDNAを採取し、ゲノム解析のうえ髪や瞳の色などの容姿の特定、ならびに健康状態の調査をする方針を2014年9月に発表している。その後、遺骨を法医学的に分析し、ボズワースの戦いでは11カ所の傷を負っていたことが明らかになった。そのうち9カ所は兜によって防護されていなかった頭部にあり、頭蓋骨にはのこぎりのような武器で削いだ傷や、骨を貫き脳にまで達した刺し傷もあった。致命傷になったとみられる2カ所の傷は、脳内に数cmから10cm程度入り込む頭蓋骨への刺し傷であり、この傷によって一瞬にして意識を失い、その後心肺が停止したと考えられる。リチャード3世のY染色体DNAが、曾祖父の兄であるジョン・オブ・ゴーントから続く同家系の男系の5人の子孫が共通に持つY染色体DNAと一致しなかったことから、ある時点で5人の共通祖先あるいはリチャード3世の祖先(リチャード3世自身を含む)には、公式の家系図に書かれていない父親を持つ男子がいたことが判明した。その結果、ランカスター朝ヘンリー4世ヘンリー5世ヘンリー6世と、ヘンリー7世から始まりヘンリー8世とその3人の子に至るまでのテューダー朝全体に、嫡出に関する疑念が生まれている。これはさらに、ヘンリー7世の嫡出子孫である後継のステュアート朝、ならびに21世紀初頭の時点でイギリス君主の座にあるウィンザー朝の正当性に疑いがあることを意味している。その他、リチャード3世が96%の確率で青い目の、77%の確率で金髪の持ち主だったとの結果が出ている。2015年3月26日、調査が終了した遺骨はレスター大聖堂に再埋葬された。遺体はコーンウォール産の楢の木の棺に納められ、霊柩馬車に牽かれ、ヨーク家の象徴である白い薔薇を持つ市民たちが見守る中、レスター市内を回り、レスター大聖堂に「国王の礼をもって」改葬された。そのときにはカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー、ウェセックス伯爵夫人ソフィー、グロスター公爵リチャード王子(即位前のリチャード3世と同名同号である)、同公爵夫人バージッドが臨席し、桂冠詩人キャロル・アン・デュフィー(英語版)による詩が俳優のベネディクト・カンバーバッチ(遺体のDNA分析で血縁者と判明)の朗読によって捧げられ、リオネル・パワーによる「詩編」を基に作曲した音楽が演奏された。また女王エリザベス2世から直筆の手紙が贈られた。

<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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補註: 2021年3月31日追記 どうしてリチャード三世よりも簒奪者的なヘンリー七世のテューダー朝の成立で薔薇戦争が終ってしまうのか? そのひとつの答えとして・・「キングメーカー」が百年戦争と薔薇の30年内乱を通じていなくなってしまった・・ということ。以下のページもご参照下さい。

画像はシャルル七世(フランス王)

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