culture & history

蔡温が植林し造林を指導した国頭村の森林

2020年1月4日 土曜日 雪のち晴れ

富山和子 日本再発見 水の旅 文藝春秋 1987年

・・経済政策を記した彼(=蔡温;琉球王国の宰相1682〜1761)の書物の冒頭に掲げられていたのは、つぎのような思想であった。 「わが国(=琉球王国)は大海の孤島で隣国もないから、暴風にも日照りにも、常に自身で備えておかねばならぬ。船を作るにも、いちいち木材を輸入するわけにはいかぬ。また異国の難破船の船員たちの、食糧、衣服や船を造り直して送り返す計画も、予め予定しておかねばならぬ」・・・(中略)・・・ 民族の智恵として、自己完結型を養ってきたにちがいなかった。(富山、同書、p274-5)

 ・・この間、村の古老たちを集めては彼らの経験を聞き、あらゆる智恵を借り、彼らから技術を学んだ。そのようにして前後十二か月の山での生活で、彼は蔡温林学を完成させている。(富山、同書、p273)

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補註: 国頭村(読み=くにがみむら)

補註: 蔡温 ウィキペディアによると・・・

蔡温(さいおん、1682年10月25日(康熙21年9月25日) – 1762年1月23日(乾隆26年12月29日))

1734年、8月に農業の制度や経営について解説した『農務帳』が著された。


翌年には羽地大川で水害が発生し、8月16日に河川改修の指示を受け、8月22日に現地へ入り11月17日に完成させている。同年12月10日には山林を管理する役を命ぜられた。乾隆元年(元文元年、1736年)11月13日から翌年3月3日まで自ら琉球北部の山林を巡視し、各地で治山の指導をするとともに山林の管理方法を『杣山法式』にまとめた。

実学を重んじ、物事を現実的にとらえ、自ら行動する政治家であった。特に山林の保全や河川改修において現地に赴き自ら指揮を執ることが多かった。


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当時の琉球王国は薩摩藩の支配により停滞状況にあったが、蔡温は薩摩藩に従う利点を説き、現実的に対応するよう指導した。主君である尚敬王に対して「清との付き合いは難しくないが、薩摩藩との付き合いには十分な配慮が必要」と忠言している。内政では羽地朝秀の改革を継承し、のちの琉球王国の方向性を定めた。


農業政策

田と畑の転換を禁じ、また傾斜地の開墾を制限する一方で、農民に耕地の永久耕作権を与えて農地の地力保護をはかったり、農業用水路の整備を進めたりした。村や間切の境界を明確にし土地所有をはっきりさせ、旱魃や暴風に対する食糧備蓄制度を充実させた。また、農民を組合に所属させ納税の連帯責任を負わせることで農民同士の協力を促すとともに相互監視による税収の安定化をはかった。この組合組織は後にユヒ組(ユヒマワル、ユイマール)と呼ばれるようになった。しかしながら蔡温以後に有力な後継者が現れず、これらの政策は十分には浸透しなかった。

林業政策

各島の木材需給状況に鑑み、ある程度の山林を有する島の用材は島内でまかない、山林のない島については沖縄本島中部や北部から供給し、八重山については将来へ向けての予備とする方針を定めた。また、山林と田畑との境界を明確にして管理を強化した。植林を奨励し、海岸部にはアダン、マツ、テリハボクなどからなる潮垣と呼ばれる林、内陸部の要所にはマツなどからなる抱護と呼ばれる林を設けた。さらには森林資源保護のために新しい家や船の建造および薪の利用を制限し、まるまる大木の一本を必要とする「くり舟」(丸木舟)の製造を禁止した。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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