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馬援と朱勃:欒布が彭越を哭すの義に感じ、あえて悲憤を陳ぶ

2015年12月18日 雪のち晴れ

陳舜臣 中国仁侠伝 陳舜臣中国ライブラリー29 集英社 1999年

 朱勃(しゅぼつ)の心の中では、伏波将軍馬援は、あの茂陵(もりょう)の少年のままであった。
 「あの子だな」
 と反射的に思った。あのときの説明しがたい「なにものか」がまだ失われていなかった。
 そのなにものかが、六十歳の朱勃を駆って洛陽の宮殿へ行き、馬援弁護の書をたてまつらせたのである。
 ーーー臣聞く、王徳聖政は人の功を忘れずと。
 かれの上奏文は右の句からはじまり、馬援の過去の功績をかぞえあげる。
 光武帝の朝廷に仕えること二十二年、北は塞漠(さいばく)を出て、南は江海を渡った。それなのに爵は絶え領地も伝わらず、どんな過ちがあったのか、国じゅう知るものはなく、人びとは彼についての悪口をきかない。・・・(中略)・・・
 朱勃(しゅぼつ)は自分のこの上奏文を、公卿たちに下げ渡し、馬援(ばえん)の功罪を吟味していただきたいと願い出たのである。 
 ーーー臣はすでに六十。常に田里に伏すも、ひそかに欒布(らんぷ)が彭越(ほうえつ)を哭すの義に感じ、あえて悲憤を陳(の)ぶ。闕庭(けつてい)に戦慄す。
 朱勃の上奏文は右の句で結ばれている。
 六十の老齢になって田舎に引退しているが、これは黙っておれないというのだ。・・・闕庭に戦慄するとは、宮門の庭でふるえて罪を待つことで、こんな上奏をして、処罰されるのは覚悟のうえだ、という決意を表したのだ。・・・(中略)・・・
 だが、無実を訴え出た朱勃を、処罰せずに無事に送り返したことで、馬援の名誉は回復されたことを天下に告げたのである。(陳舜臣、伏波将軍まかり通る 同書、p325)

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注:上奏文は後漢の光武帝・劉秀にあてたもの。

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参考: 以下は史記列伝の欒布のところから再掲:

丸山・守屋・訳 司馬遷 史記 3 独裁の虚実 徳間文庫 2005年 オリジナルは1988年徳間書店

太史公曰く、欒布(らんぷ)、彭越(ほうえつ)をを哭し、湯に趣くこと帰するがごときは、かれ誠に処するところを知りて、自らその死を重んぜざればなり。往古の烈士といえども、なんぞもって加えんや。

欒布が彭越にたいして哭泣(こくきゅう)の礼をとり、また釜ゆでにされようとしたときに、帰するがごとく平静であったのは、身の処し方を知っていて、死をなんとも思わなかったからである。古代の烈士といえども、かれ以上の者はいなかったと言ってよい。(丸山・守屋・訳 司馬遷 史記 3 独裁の虚実 p410-411 徳間文庫 2005年 オリジナルは1988年徳間書店)

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