陳舜臣 中国仁侠伝 陳舜臣中国ライブラリー29 集英社 1999年
皇帝の呶声(どせい)にうながされるように、一人の御史が朱雲をつかまえて、ひきずりおろそうとした。
朱雲は宮殿の欄檻(らんかん)に抱きついて、ひきずられまいと抵抗する。
「おう、死にましょう」と、朱雲は叫んだ。ーーー「臣はあの世へ行って、龍逢(りゅうほう)や比干(ひかん)と遊ぶことができれば満足です。さりながら、陛下はいかが遊ばされますか?」
龍逢(りゅうほう)は伝説の夏王朝の暴君桀王を諫めて殺された人物であり、比干(ひかん)は殷の紂王を諫めて殺された人物である。
直言して殺された人物の仲間入りをする。ーーーこれは裏返していえば、成帝を桀や紂などの暴君の仲間に入れることではないか。
死を決した人間でなければ放つことのできない、大胆不敵の文句である。
御史が満身の力をこめて、朱雲をひっぱり、朱雲は欄檻から体を離さない。さすがの岩乗な宮殿の欄檻も折れてしまった。
御史は朱雲をひきずって、宮廷の外へ連れ出した。
このとき、左将軍の辛慶忌(しんけいき)が進み出た。・・・(中略)・・・
この辛慶忌(しんけいき)は冠をぬいで、印綬(いんじゅ)を解いた。これは辞任のときの姿勢である。・・・(中略)・・・「・・・もしその言葉があたっておれば、誅殺すべきではありません。もしその言葉がまちがっておりましても、ゆるされるべきであります。臣は敢えて、死を賭して、反対いたしまする!」
なんども床に叩きつけたので、辛慶忌の額は割れて、そこから血が流れた。(陳舜臣 わが敵は丞相 同書、259-260)
折檻という熟語は、強く諫める意味である。
朱雲が成帝に対してしたように、本来は臣下が皇帝に、子が親にといったように、下から上への直諫のことである。
ところが、日本では反対に、親が子に、役人が容疑者に、つまり上から下に加える肉体的なこらしめ、という意味に使われている。なぜそうなったかわからない。・・・(中略)・・・
中国では、その後、宮殿を造営するとき、かならず一部分の手すりを欠くしきたりができた。(陳舜臣、同書、p260)
漢書「朱雲伝」には、
ーーー終於家(家で死んだ)
と記している。かれの場合、この三字の文章は、意外性の強さがこもっているといえよう。(陳舜臣、同書、p262)
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