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「書紀」が一見、荒唐無稽な表現をしているのは・・・

2016年2月26日 金曜日 曇り

小林惠子 広開土王と「倭の五王」 讃・珍・済・興・武の驚くべき正体 文藝春秋 1996年

補注 「書紀」が一見、荒唐無稽な表現をしている場合には、ストレートには書けない事情があるが、どうしても記載すべき重要な史実を表現したかったということである。これに対しては、陰陽五行説・讖緯説などの「書紀」執筆当時の知識人に共有されていた思想に関する情報をもとに、丁寧に読み解いてゆかねばならない。「書紀」が何らかのタネ本、たとえば七世紀に唐で編纂完成された「晋書」などを参照している場合には、「晋書」執筆陣に共有されていた思想の理解のもとに読み解いていかないと、何が表現されているかわからない。

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「三国史記」と「書紀」の場合、「太子が立つ」とある時は王権に陰りがみえた場合の表現である。王権が危うくならない限り、高璉のように五〇余年在位していても、実際には太子の冊立(さつりつ)があったにしても、記録はされないのだ。このような「書紀」の特徴からみて、武烈立太子の記事がみえることから、仁賢政権は四九四年の頃から危うくなってきたことが推測される。このことは「三国史記」からも推測できる。(小林、同書、p233)

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私は高句麗による四八八年の三回の北魏への送使の目的は紀生磐への援軍の要請だったと思う。そして四八八年は億計が即位した年である。高句麗王高璉は・・允恭と対立して倭国を去った「記紀」では木梨軽皇子として描かれている人である。彼は四三〇年代に高句麗王になったから、当時、在位五〇年余、年齢も八〇歳に近かったと思う。すでに老齢で戦う気力を失っていたので北魏に応援を求めたのだろうか。当時の戦いでは大きな戦いの場合、王自ら出兵するのが基本である。高璉(こうれん)にしても四七五年、百済の餘慶(よけい)を攻め滅ぼした時には自ら出陣している。 百済戦に敗れた紀生磐は三韓の王の夢を絶たれ、北魏軍の出兵でようやく倭王になることに成功した。この紀生磐が「書紀」に同四八八年に即位したとある億計(仁賢(にんけん))である。・・億計、弘計兄弟は高句麗だけではなく、北魏とも同盟していたのだ。・・倭国に逃げ帰った億計は、仁賢朝を成立させた。(小林、同書、p229)

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