culture & history

魏志倭人伝の時代

2016年3月31日 木曜日 くもり

小林惠子 三人の「神武」 後漢・光武帝、奴国王、卑弥呼、高句麗・東川王の攻防 文藝春秋 1994年

小林惠子さんのシリーズを集中して読み込み、この「三人の「神武」」が、私が読んだ順序では一番最後、つまりこの本を読み終えれば、通史や改訂版シリーズを除いて、小林惠子古代史をすべて通読したことになる。2016年3月16日にノートを取って以来、春分の日前後の津山帰省もあったりして、しばらく古代史の勉強から離れていたが、今日で読み終えられそうである。

魏志倭人伝の時代

中国東北部・半島・列島という東アジア地域は、中国の他の周辺地帯と同様、紀元前より、物心両面にわたって、多大な中国文化の恩恵を受けてきた。反面、その政治的侵略及び、支配に対する不断の抵抗運動を繰り広げた時代でもあった。(小林惠子、同書あとがき、p264)

三角縁神獣鏡は半島では出土しない。このことは、三角縁神獣鏡が列島を表象する鏡であることを示唆する。東川王が列島に来るとき、陳氏等鏡製作者を伴っており、その鏡製作者が三角縁神獣鏡を製作したのではないか。・・車塚から出土するような三角縁神獣鏡は、東川王が列島に来て、倭国王になった後、権威の象徴として、列島の首長たちに配布するために製作したと考える。(小林、同書、p151-152)

車塚という名称をもつ古墳は各地にあるが、車は帝王を暗示する。・・北斗七星は酌(北斗四星)の部分を軸にして車輪のように一年で一回転するのである。それで、しばしば北斗七星の代わりに車輪を描いて帝王を暗示する。・・奈良の薬師寺の薬師如来座像に限って、手のひらや足の裏に車輪を刻んでいるのは、倭国王だった天武がモデルだからである(小林「高松塚被葬者考」)。このことは奈良の薬師寺は、・・最初から天武の追悼寺であることを物語っている。・・・(中略)・・・車塚という名称のつく古墳は王墓と考えられてきたとみてよいと思う。七世紀に入って、畿内の大和朝廷の政権が確立されると、各地に点在する王墓は王墓であることを大和朝廷によって抹消されることになった。しかし、王墓としての伝承は残った。そこで土地の人々は王墓という名称ではないが、その意味を内在する車塚と称したので、車塚が各地に点在することになったと思われる。(小林、同書、p252-253)

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参考までに2016年3月16日のノートを以下に再掲する:

小林惠子 三人の「神武」 後漢・光武帝、奴国王、卑弥呼、高句麗・東川王の攻防 文藝春秋 1994年

考古学的には四世紀の後半まで、半島南部は同じ文化を持ち、差は見られないのだから、史料に影響されて、馬韓・弁韓・辰韓が厳密に区分されていると考えない方がよいと思う。新羅や百済にしても、中国の史料には四世紀後半までその国名が見られないから、それが紀元前後に存在していたにしても、それぞれ半島中南部にひしめいていた小国の中の一つに過ぎないのである。この時代を考える場合、これは忘れてはならないことである。つい史料にあらわれる国を確立した強固な存在と考えがちだが、そうではなかった。それぞれが離合集散、興亡ただならぬ小国群だったのである。(小林惠子、同書、p74-75)

第一次神武東遷
(補注:高句麗王の)大武神は四四年、後漢に攻められ、完敗した。捕らえられれば鄒牟のように殺される。当然、亡命したことだろう。・・・(中略)・・・「新羅本紀」にみえる、(補注:辰韓・新羅王の)脱解の出身地とする倭国の東北千里の多婆那国とは、大武神が一時寄港した丹波ではないかと考える。これが私のいう第一次神武東遷である。 しかし、大武神は丹波には長く留まらず、北九州に定着したようだ。それから十数年かけて、大武神こと脱解は北九州に奴国を形成し、その間、・・早良(さわら)王国を、続いて・・末羅(まつら)国を滅ぼした。・・それから大武神は北九州一帯に覇をとなえ、吉野ヶ里等の周辺の勢力をも支配下に置いたと思われる。・・それならば、なぜ大武神は丹波に近い大和に入らず、わざわざ遠い北九州をめざしたのだろうか。・・・(中略)・・・ 五七年、脱解が儒理王の死後、その子をさしおいて辰韓王になった、その年、奴国の使者が後漢に朝貢し、光武帝から印綬・漢委奴国王印を貰った・・・以下、略・・・(小林、同書、p78-80)

天武の時代に「記紀」は発案されているから、天武は高句麗史(原史料)と「記紀」の両方に関与できたのだ。天武は「記紀」で神武に投影されているというのは定説だが、それと同様、高句麗史においては大武神にみずからを投影させたのではないだろうか。(小林、同書、p82)

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補注 高句麗 ウィキペディアによると・・・
王家の姓[編集]
『宋書』夷蛮伝、『隋書』東夷伝、三国史記高句麗本紀では、高句麗の王族の姓を「高」(こう/カウ)としている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初である。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式の姓名表記がなされるようになり、それ以前にはおそらく姓は無かった。
三国史記では建国当初は高姓ではなく、5代慕本王までは夫余の氏族名である「解」(かい/ケ)を本姓としている[22]。高姓の由来としては、早くから中華文明に接触していた高句麗が高陽氏の苗裔として高氏とする付会を行なったとする見解[23]や、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものとする意見がある[24]。

補注 歴代高句麗王 ウィキペディアによると・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の君主一覧#.E9.AB.98.E5.8F.A5.E9.BA.97

高句麗王 一覧

東明聖王(ツングース民族、在位紀元前37-紀元前19年)
瑠璃明王(紀元前19-紀元18年)
大武神王(18-44)
閔中王(44-48)
慕本王(48-53)
太祖大王(53-146)
次大王(146-165)
新大王(165-179)
故国川王(179-197)
山上王(197-227)

東川王(227-248)
中川王(248-270)
西川王(270-292)
烽上王(292-300)
美川王(300-331)
故国原王(331-371)
小獣林王(371-384)
故国壌王(384-391)
広開土王(好太王、391-413)
長寿王(413-491)

文咨明王(491-519)
安臧王‎(519-531)
安原王(531-545)
陽原王(545-559)
平原王(559-590)
嬰陽王(590-618)
栄留王(618-642)
宝蔵王(642-668)

以上、ウィキペディアより引用

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また、同じく小林氏の著書で通史の興亡古代史からノートを取った今年の3月3日の記事を以下に再掲する:

魏志倭人伝の時代、日本海の新勢力「東倭」は丹後半島も支配

2016年3月3日 木曜日 曇り

小林惠子 興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年 文藝春秋 1998年

「倭山」とは「倭国にある山」の意味で、列島、この場合、奴国を暗示しているのではないか。「高句麗本紀」は「百済本紀」や「新羅本紀」と違って、倭国や倭人との攻防は決して明記せず、暗示にとどめているのが特徴であることを忘れるわけにはいかない。(小林、同書、p57下のカラム)

徇喪者(じゅんそうしゃ)を殉死者(じゅんししゃ)と混同して解釈しているのが普通だが、徇喪者の「徇」は使役するという意味である。つまり卑弥呼の墓を作るために使役された人々を徇喪者と言ったのである。王墓を作るのに使役されたのが百余人というのは、当時としては少ない方ではないだろうか。(小林、同書、p67)

 補注 
徇 ジュン となえる・したがう 徇義・徇行・徇節のように自ら服する意に用い、そのために姓名を捨てることを殉(じゅん)という。
殉 ジュン おいじに・したがう 形声 声符は旬(じゅん)。旬は徇(じゅん)の省文。徇に徇服(じゅんぷく)の義があり、死をもって徇(したが)うことを殉という。(以上、白川、字統、p440、p441より抜粋引用)
徇 巡行して衆に示すことをいう。また軍中などに宣布する意に用いる。(白川、字通、p766)
徇喪 この熟語はネット辞書ではパッとは出てこない。とりあえず宿題としておく。

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北九州の大国だった伊都国に亡命した許氏の卑弥呼
卑弥呼は伊都国にあり、伊都国王は別にいたが、東倭を除く、列島全体の呼称が邪馬臺国だったのである。 こうして卑弥呼一族を受け入れた伊都国の王は卑弥呼の権威によって北九州のみならず、ニニギ系神武勢力や東倭・狗奴国を制圧しようとしたと思われる。(小林、同書、p69)

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丹後半島の中央部、京都府弥生町の古墳(大田南五号墳)から、魏の青龍三(二三五)年という年号の入った方格規矩(ほうかくきく)四神鏡が出土している。そして同型の方格規矩四神鏡が狗邪韓国の大成洞墳墓(一八号墳)からも出土している。 先に述べたように四隅突出型墳丘墓の存在からして日本海の新勢力「東倭」は、丹後半島も支配していたと思われるから、この鏡は東倭に与えられたものとするのが妥当である。・・この鏡がどこで製作されたかは別にして、私は東川王が魏側の態度を鮮明にするに際して、東倭と親交を結ぶために送った鏡と考える。(小林、同書、p74-75)

東倭国王は卑弥呼の場合と違って魏の都洛陽には赴いていないようである。しかし高句麗には行ったかも知れない。それを証明するのが、先に述べた出雲に出土した景初三年鏡である。さらに景初四年鏡がある。(小林、同書、p78)

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狗邪韓国 ウィキペディアによると・・・
狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では韓と接する国、『後漢書』では倭の西北端の国とする。

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