2018年10月7日 日曜日 雨
菅原千恵子 満天の蒼い森 若き日の宮沢賢治 角川書店 平成9年(1997年)
**
補註 同じ菅原千恵子さんの別の著書から、こちらの読書ノート https://quercus-mikasa.com/archives/8432 のページもご覧ください。
**
・・この世では金儲けにだけ精を出し、何一つ自分を変えようとはしないくせにあの世ではしっかり極楽浄土に行こうとする父親の信心とは一体なんなのか。それが父の浄土真宗なのか。(菅原、同書、p129)
**
・・「トルストイに打ち込んで進学したのは珍しい。」
と賢治がいうと、
「芸術は、大地を相手とした労働から生まれた時、本物となり、本物の芸術だけが文化となって残っていくのではないですか。僕(補註:=保坂嘉内)は農業と芸術の融合を目指したい。」・・・(中略)・・・
しかし、この保坂嘉内という男は、不思議な男だ。啄木やトルストイを口にしながら、百姓こそ真の芸術の担い手と言ってはばからない。
(菅原、同書、p144)
盛岡中学のバルコニーの場面(菅原、同書、p148)
補註: 下記のサイトに啄木・賢治の時代の盛岡中学校の写真が載っていた。
啄木・賢治の青春 盛岡中学校
岩手県立盛岡中学校 『東宮行啓紀念写真帖』より
岩手山 『東宮行啓紀念写真帖』より
石川啄木『一握の砂』より
盛岡(もりをか)の中学校の
露台(バルコン)の
欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を倚(よ)らしめ
教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心
**
・・どうしても法華経を背負って共に歩きたいという賢治の願いに嘉内は応えられないことを自覚したのだ。法華経から離れることは賢治との仲が完全に遠くなることを意味する。もはや、嘉内が共に進む同志たり得ないことを賢治が知ったらどうなるだろうか。嘉内はとても、それを今言い出す勇気がない。そしてそれを伝えた時のことを想像するのは耐えられない苦しさだった。三月二十二日の日記で、友情の遠くなるのをかみしめていた。(菅原、同書、p286)
**
・・嘉内は叫んだ。
「おれは天上に自分の世界を持たないだけなのだ。おれが命をかけて戦うのは、この汚く貧しく寂しい者達のうごめく、この地上なのだ。おれの神はおれの内にある。」
なんという自信に満ちた言い方だろう。賢治は完全に打ちのめされ、言葉を失った。(菅原、同書、p296)
**
・・そして、いつもぼんやりとした頭の中に浮かんでくるのは岩手山でふり仰いだ満天の星空だけだった。その下に太古の昔のままに蒼い森が深く連なっている。やがて朝とともに始まる音と光の洪水を前にして、あの時二人の若者は森の静寂さに身をゆだね、何かわからぬ予感にふるえていた。星くずがまるで音をたてているように思われた。乳色に横たわる天の川。賢治は一人呟いた。
あまのがは
岸の小砂利も見いえるぞ
底のすなごも見いえるぞ
いつまで見ても
見えないものは水ばかり(菅原、同書、p297-298)
**
*****
********************************************