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宮沢賢治の青春―“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって

2018年10月2日 火曜日 (風の強い)雨のち(台風一過の)晴れ
 
 
宮沢賢治の青春―“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって (角川文庫)
菅原 千恵子
 

補註 同じ菅原千恵子さんの別の著書から、こちらの読書ノート https://quercus-mikasa.com/archives/8435 のページもご覧ください。

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賢治と父政次郎の相剋はこれまでも研究されているところだが、この当時の家を継ぐべき長男としての制約は、想像以上のものがあったことは確かで「アザリア」同人の河本義行でさえ父との対立を嘆いて、友人嘉内に次のように書いてよこしている。・・・(中略)・・・ 嘉内とて、長男ゆえにそれから逃れることはできなかった。(同書、34% No.1078/3203)
 
・・求められ異体同心と言われれば言われるほどそれに応えきれない苦しさが大きな負担となってのしかかってきていたのではないのか。(同書、35%、No.1099/3203)
 
・・固い約束を交わしながらどうしても賢治の人生を自分の人生として受けとめられないと知ったとき、嘉内は父親の人生も認めたのだ。異なった人生観を持ち、異なった社会に住んでいようと、それぞれが尊いという心境は、・・・以下略・・・(同、No.1121)
 
・・嘉内にも法華教徒になってもらい、一緒に国柱会に入り日蓮門下になることが目的だった賢治が、逆に人生の目的や願いは何かと問われたとき、彼はほとんど言葉を失った。「私には私の望みや願ひがどんなものやらわからない」と弱々しく自問するしかなかった。
 そして賢治にはその答えが見いだせぬまま、とうとう再会の日がやって来た。大正十年七月十八日、嘉内の日記はページいっぱいに・・・(中略)・・・
 賢治は自分の人生の目的は何かという答えを用意できぬまま嘉内と対面。懐かしさと喜びのうちに果たされるはずの再会は、宿命的な宗教論となり、二人は互いに深い傷を負って別れた。
 このあと二人は長い切れ目を置きながらわずかに近況を知らせあう三通の手紙が大正十四年まで断続してあり、そして途絶える。(同、No.1164)
 
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 ・・「神はおれのうちにある」と宣言し、現実に鍬を持つことで商業主義の嵐に荒む農村の中に入ってゆこうとしていた嘉内が、賢治と再会したときに、日本農村の暗い現実、法華経の無力、賢治の信仰の観念性を鋭く突いたであろうことは容易に察せられる。(同、No.1486)
 
・・嘉内との訣別によって、賢治が図らずも引き受けてしまったもの、それは法華経に対する疑念と嘉内への思慕であった。(同、No.1613)
 
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・・わかるはずがないのはあえてわからないように書いていたためだと言わんばかりである。その通り、賢治はある特定の誰かに見てもらうためにこの詩集を出したのだ。そしてこのある特定の誰かだけが一読すれば全てを理解できる人であった。その誰かこそ賢治のただ一人の友保坂嘉内だったのだ。(同、No.1715)
 
・・
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ(小岩井パート九)
・・・(中略)・・・
・・その万象と共にという願いからそれて、自分とたったもう一人のたましいとのみ永久に歩こうと求めること、それは相手が男であれ女であれ、もう恋愛なのだと作者は気づいたのだ。「冬のスケッチ」の段階ではこのことがわからないために「おれのかなしさはどこから来るのだ」とうめき、苦しんでいた。
 今こそそれがはっきりしたのである。正しい願い、つまり万象と共に歩く道こそほんとうの道であってその他の道は「みんなただしくない」のである。(同、No.1872)
 
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