2017年2月27日 月曜日 快晴・陽射しが暖かく窓辺(室内)はぽかぽか陽気である。
植木研介 チャールズ・ディケンズ研究ーーージャーナリストとして、小説家としてーーー 南雲堂フェニックス 2004年
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1860, “He was performing a symbolic break with his past”
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1860年9月3日(ディケンズ48歳)ディケンズは3人の子供に手伝わせて自分の手元にある他人からの手紙を焼き捨ててしまっている。・・彼は自分の書いた手紙全ての消滅をねがっている。・・”He was performing a symbolic break with his past” に他ならない。「自己の過去との決別」である。(植木、同書、p334-335)
この手紙と書類の焼却という「自己の過去との決別」を行った、翌年の1861年12月1日から1861年8月3日まで、 The Great Expectations をディケンズは All the Year Round 誌に週刊連載した。そこには David Copperfield の「逃避し回避する」 David はもはや見られない。「過去に抱いた自己の願望の誤り」を正面から見つめる Pip がいるのである。こうしたディケンズの生涯の大切な時期にクリスマス特集号の半数以上が発行され、その中でディケンズは編集を行いながら筆を振るっている。(植木、同書、p335)
ジャーナリストとしてのディケンズが先にあり、次第に物語り手から小説家が成長したと現在の我々には思われるのだが、ディケンズ自身は、週刊雑誌を発行してジャーナリストとしての態度を取り続けた。そのことは社会に対して見せるディケンズの外面の姿と、個人としてのディケンズの苦悩していく内面の距離を次第に大きくしていったように思われる。その苦悩と乖離はかれの作品の中に跡付けられるのであって、ジャーナリストとしてのディケンズに現さないようにしていたと考えるのがより適切なのかもしれない。 “His Brown-Paper Parcel”の物語は、彼の苦悩の表現であって告白となっているように思われるのだ。(植木、同書、p348)
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成功した中産階級としての彼には、秘められた個人としての生活は皆に知られることを許されなかったのであろう。幼年期の靴墨工場で働いた体験は家族にも内密にし、妻との別居のことも、エレン・ターナンのこともごく身近な人には知られても、読者大衆には知られてはならない。架空の物語ならば許されたにしても。それが、ディケンズの在り様であり、一個人としての遺言の中では上述のような彼の願いになったのであろう。(植木、同書、あとがき、p353)
ディケンズはヴィクトリア朝のセルフメイド・マンを生きた中産階級の人であり、この階級の下と見られる演劇の活動には趣味としては打ちこめても、劇の後でヴィクトリア女王に謁見することを辞退している。中産階級のモラル・コードから外れる妻との別居、エレンとの関係は外に漏れてはいけないことに成るのである。中産階級の改革派ではあっても植民地におけるイギリスの権益についてはこれを守る立場となっている。宗教的には、新約聖書のキリストへの信仰は守ったが、教会制度には批判的であり続けた。これが彼の視座であり位置である。(植木、同書、あとがき、p354)
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