literature & arts

Dickens, Little Dorrit (3)

2017年2月27日 月曜日 快晴・寒い

植木研介 チャールズ・ディケンズ研究ーーージャーナリストとして、小説家としてーーー 南雲堂フェニックス 2004年

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社会批判・社会改革とチャールズ・ディケンズ

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本人の努力と人柄、人格によってレディとなりうるとの主張

 ディケンズはヴィクトリア朝のエトスであった「セルフ・ヘルプ」を自ら実践し、セルフメイド・マンとして社会の階段を登り詰めた人物と言ってよいが、小説作品中の男性登場人物でセルフメイド・マンのタイプはほとんど常に否定的に描かれている。これとは反対に後期の作品群にあっては女性の登場人物は、その出自が低い社会階層であっても、本人の努力と人柄、人格によってレディとなりうるとの主張が現れてくる。・・
 その動機こそ違うものの、レディになりたい、紳士になりたいとの願望をもつ登場人物は、 David Copperfield のエミリ、 Great Expectation のピップがいる。1850年代のエミリはその願望が仇となり苦境に陥る(補註1)。1860年から1861年のピップの場合は、自分の抱いた紳士像の虚妄生に気づき覚醒する経過が、少なくとも物語の表層における、彼の語る物語になっている。Great Expectations がしばしば作家デイヴィッド(・コッパーフィールド)の反省に基づくと言われる所以がここにある。即ち、1860年代の作家ディケンズは1850年代に描いた自己満足的傾向のあるデイヴィッドとはかけ離れてきているのである。
 また、1864年から65年にかけて書かれた Our Mutual Friend の最終章の最後の部分で、テムズ川の死体を拾いあげ、金目の塵芥を漁るギャファー・ヘクサムの娘、最底辺の社会層出身のリジィ・ヘクサムと法廷弁護士のユージン・レイバーン(補註4)の結婚が社交界の晩餐会で話題となる場面が描かれている。この中で貴族の遠縁にあたる気の弱いトウェムローが、皆の意見と異なって、初めて毅然としてリジィはレディだと主張し、ユージンも真の紳士だと彼は断言している。そしてこの紳士の称号は誰でもが成り得るものだと発言する。
 ディケンズは確かに大きく変貌しているといってよいのだ。エレン・ターナン(補註3)はもはや植民地に送られはしない(補註2)。(植木、同書、p327)

補註1&2 デイヴィッド・コッパーフィールドの中のエミリ:植民地に送られる更生女性たち
デイヴィッド・コッパーフィールド(1849-50)には、スティアフォースに誘惑されて捨てられたエミリィの顔を、直視しえないデイヴィッドがいる。このデイヴィッドは、ホーム(補註5)の運営にあたっているディケンズとほぼ同じ意識の中にあるのだ。・・英国政府から言えば移民、植民政策は同時に棄民政策だったのであり、植民地にされた側から言えば本国の厄介者を押しつけられた形なのである。またデイヴィッドとディケンズにとって、オーストラリアは無意識の層に抑圧してしまいたい者を送り込む、心の領域ともいえる読みが可能になってくる。(つづけて)補註2 エレン・ターナンと関係を持った後のディケンズならば、少なくとも心の中でこうした女性たちの移民に痛みを覚えたであろう。エレンも彼(ディケンズ)に捨てられたならば、所謂「堕落した女性」の仲間入りをすることになるのだから。(植木、同書、p326)

補註3 エレン・ターナンとの恋愛、妻キャサリンとの別居
1857年の夏8月に彼(補註 45歳)はエレン(補註 20歳にもなっていない Ellen Terman)と初めて会った。二人は極めて親密になっていくがその実態は現在も不明である。1858年5月22日に妻(補註 以前から次第に不仲になっていた)と別居する。(植木、同書、p324、p334)

補註4 Our Mutual Friend の中のユージン・レイバーン
・・こうした矛盾し引き裂かれた自己の状態に彼を追い込んだのは、ほかならぬ自らの人生への懐疑そのものだったと考えるなら、後期のディケンズの作品群から窺える、ある方向性とぴたりと軌を一にするのである。その方向性とは Our Mutual Friend の登場人物の一人、人生の路上で目標を失い行き暮れた迷い人、ユージン・レイバーンに連なる系譜なのだ。明確な形をとった登場人物はアーサー・クレナムをもっと嚆矢とするのであり、彼の棲む空間 Little Dorrit が構築されたのは1855年か1857年のことであった。ディケンズの転機は1855年以前に訪れたようである。(植木、同書、p324)

補註5 ホーム:1847年に開設された「家庭のない女性のためのホーム」(Home for Homeless Women, 愛称 ‘Urania Cottage’) 1847年に開設された「家庭のない女性のためのホーム」(Home for Homeless Women, 愛称 ‘Urania Cottage’)— ホームはそうした女性の更生と、更生が成った暁にはオーストラリアや南アフリカへの移民を目的とし、この移民の条件を承諾した人しか入所させなかった。(植木、同所、p325)  

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