加地伸行 沈黙の宗教−−−儒教 ちくまライブラリー 1994年
2015年10月2日 金曜日 晴れときどき雨
風邪とアレルギーがひどくて今日は仕事を休んでいる。
加地さんの本・・・何年も前に通読してまさに目から鱗が落ちる感があったのである。
今年は父を看取る巡り合わせとなった。さらに本家の叔母も喪い、この秋はその四十九日の法要・納骨そして祖先の位牌を引き取るなど・・・私たちの親族にとって重要な日々が訪れた。ただ、表面的には残された荷物の片付けがひたすら大変で、しかも動物などによる被害も甚だしく、限られた時間で供養(故人の遺品を焼くことが主体)を続けながらひたすら片付け(処分場へのトラック輸送など)に奔走するという形で慌ただしく進んだ今日この頃であった。
ついに風邪を引いてさらに激しいアレルギーで寝込むまで加地さんの本をゆっくりと再読する日が訪れなかったのである。今日は加地さんの他の著書にも手を伸ばそうと、孝教の解説書まで注文してしまった。それが届いても今度は他の用件で奔走しているかもしれないけれども、ともかく少しでも時間を作って深く考え理解してゆきたいと考えている。
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不思議なことだ。われわれは個体ではなく一つの生命として、現在とは言いながらも、実は過去をずっといっしょに生きてきたのであり、これからもいっしょに生きてゆく運命を共通にする生物なのである。しかも、過去も未来もすべて現在が含みこんでいる。儒教はそれを言うのである。すなわち<孝>とは、現代のことばに翻訳すれば、<生命の連続の自覚>のことなのである。言いなおせば<永遠の現在の自覚>である。ここにおいて、<死>を見る眼が<生>を見る眼へと一気に逆転する。死の意識から、広大な生の意識へと逆転する。これが儒教の死生観なのである。
この儒教の死生観は現代生物学の重要な概念である利己的遺伝子という考え方と、偶然ながら似ている。(加地、同書、p62より引用)
中国古代には、もちろん<遺伝子>というような概念はない。しかし、現代科学において細かく分析された結果としての遺伝子ということではないが、具体的な肉体を持つ子を、父母の複製として自覚しているのである。(同書、p66)
儒教はその死生観の行きつくところに<生命の連続の自覚>を見出している。整理すると、こういうことになるであろう。
まず第一は、死の恐怖を乗り越えるものとして、死後に子孫が遊魂(浮遊している自分の死後の魂)を呼びもどしてくれ、なつかしいこの世に帰ることができる。この招魂再生という祖先祭祀は、<精神(魂)の永遠>という可能性を教えるものである。
そのつぎは、己という個体は病気や老衰などによって死滅しはするけれども、己の遺伝子を載せた子孫の肉体が存続することによって、肉体の消滅という恐怖もまた解決される。すなわち、子孫が続くことによる<肉体(魂)の永遠>という可能性を教えてくれる。
遊魂と子孫と−−−形は変わるけれども、己の精神と肉体とは、永遠に<楽しいこの世>に<現在として存在し続ける>可能性があることと、その自覚とを説くのが儒教であり、そのキーワードとして<孝>があるのである。(同書、p68−69)
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