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木材と日宋貿易

2016年4月3日 日曜日 雨

四日市康博・編著 モノから見た海域アジア史 モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流 九大アジア叢書11 九州大学出版会 2008年

榎本渉 「板渡(いたわたし)の墨蹟」と日宋貿易 <木材から見た海域アジア交流> 同書・第二章

木材と日宋貿易
木材は平安末期から鎌倉時代の二本の主要輸出品だった。一二五八年に慶元のトップを務めていた呉潜(ごせん)は、皇帝理宗(りそう)に奏上して、「倭商は毎年大規模な貿易を行いますが、すこぶる国計の助となるのは倭板・硫黄(いおう)のみです」と述べている。南宋の文人陸游は子孫に厚葬を禁じ、和船が慶元・臨安に来れば良質の柩を三十貫で購入することができるとしており、日本産木材は宋産よりもコストパフォーマンスにすぐれていたらしい。(榎本、同書、p54-55)

日本に「杉木・欏木」が多く生え、泉州に運ばれてくる
欏木は檜(ひのき)を指す?
日本ではヒノキを「檜」と書くが、中国にはヒノキが自生せず、ヒノキに当たる漢字もない。(中国で「檜」と言えばビャクシンを指す)。したがって、日本のヒノキを見ても「檜」と書くことはなかっただろう。なぜ「欏木」と書いたのかという疑問は依然として残る。(榎本、同書、p55-56より抄)

八六〇片中三三〇片という徴収率は、当時として妥当なものだろうか。一二二六年までの粗貨(重量当たりの価値が低い商品)に関する慶元の規定を見ると、貿易船の積荷は一五等分され、その内の二が徴税、五が官貿易の対象とされた。・・だが、慶元は一二二六年、負担が大きく商船が寄り付かないことを理由に、徴税して中央へ送る額を、日本船・高麗船について一九分の一に改め、官貿易を全廃した。 商船が来なくなると税率を下げて入港を促すことは、この時代にしばしば見られる措置である。だが、こうした措置はたいてい長続きしない。実際に官貿易については、一二五〇年代の慶元で行われている。(榎本、同書、p59)

日宋貿易に関しての具体的なイメージ
貿易における徴税・官買とこれに抵抗する大寺院、そのための贈賄、代価支払いをめぐる駆け引き、貿易の関係者など。(榎本、同書、p69)

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補注 陸游 ウィキペディアによると・・・
陸 游(りく ゆう、1125年11月13日(宣和7年10月17日) – 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))は、南宋の政治家・詩人。

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