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女伯マティルデ & カノッサ再訪

2022年1月3日 月曜日 晴れ(ときどき雪)

藤沢道郎 物語イタリアの歴史 解体から統一まで 中公新書1045 1991年

教皇グレゴリウス七世と皇帝ハインリヒ四世の確執

・・1075年2月、教皇グレゴリウス七世はローマに司教会議を開いて俗人の聖職者叙任を禁止する旨の布告を発し、皇帝顧問の司教五人を金銭でその地位を買ったとして破門、歴史上有名な「叙任権闘争」の幕を切って落とした。(藤沢、同書「女伯マティルデの物語」p40)

・・皇帝ハインリヒ四世がカノッサに着いたのは1077年1月25日、教皇はすぐには面会を許さなかった。毎年冬の厳しいこの山地で珍しいほど酷寒の年だった。「ハインリヒは裸足で、粗末な毛の外套だけに身を包み、城門の前に姿を現して、へりくだった言葉と態度で赦免を懇願した」。(藤沢、同書、p43)

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カノッサ城
カノッサの屈辱 ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左) 補註:いつ頃誰が何のためにこの絵を描いた(描かせた)のだろうか? この絵では、クリュニー修道院長(左)となっていて、ローマ教皇グレゴリウス七世となっていない。これはなぜか? ハインリヒ四世サイドの視点から描かれていて、ハインリヒ四世が教皇の廃位を提案して採択させ、「教皇ではなく偽修道士たるイルデブランド」(藤沢、同書、p41)と呼んだことに依っているのだろうか? この絵ではクリュニー修道院長(左)が一番大きく描かれており、海老茶色の僧衣は質素に見える。これらにどういう寓意が隠されているのだろうか?

ハインリヒ四世の反撃

・・ドイツ諸侯宛の同時期の手紙でハインリヒ四世は「ドイツ国王である私は、教皇グレゴリウスの決断と助言にもとづき、ドイツ王国内で私に敵対した司教及び諸侯のすべてに対し、懲罰し、または赦免を与えることとする」と書いている。カノッサは彼にとって決して無条件降伏でなく、あくまで一つの妥協であり、彼の側も破門解除以外に得るものを得たのである。(藤沢、同書、p44)

・・1080年秋、・・メルセブルクで両軍(=皇帝軍とドイツ諸侯軍の内戦)激突、諸侯軍が優勢だったが肝心のルドルフが討ち死に。・・イタリア進攻をを開始。・・ローマを制圧したハインリヒ四世はラテラーノ宮に司教会議を招集、グレゴリウスの廃位と破門を決議させた。・・不屈の人グレゴリウスはなお四年以上籠城(=聖天使城)を続けた。(藤沢、同書、p44-46より抄録)

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世

ローマ教皇グレゴリウス7世

・・ノルマン勢力(補註#)はその間に地中海に雄飛し、シチリア島をほぼイスラム勢力の支配から解放し、キリスト教圏に取り戻していた。ロベルト・グイスカルドは遠征から戻ると、1085年、サラセン傭兵を中核とする三万五千の大軍を率いて北上、ローマに向かう。皇帝(ハインリヒ四世)軍は恐れて撤退し、ロベルトは難なくグレゴリウス七世を聖天使城から救出したが、ローマ市民はさんざんの目に遭った。(藤沢、同書、p46)

教皇ウルバヌス二世の十字軍布告(別ページでより詳しく扱いたい)

11〜12世紀のノルマン勢力:別ページで扱う。 https://quercus-mikasa.com/archives/12491

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補註#)ノルマン勢力 ウィキペディアによると・・・

ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ(伊:Roberto il Guiscardo d’Altavilla, 1015年 – 1085年7月17日)は、ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てたオートヴィル家の首領。兄ウンフレードの死後、プッリャ・カラブリア伯(1057年 – 1059年)、後にプッリャ・カラブリア公(1059年 – 1085年)。フランス語名でロベール・ギスカール(Robert Guiscard de Hauteville)とも呼ばれる。当時の共通語であるラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(Robertus Guiscardus)。イル・グイスカルドとは「狡猾な人」を意味する呼び名である。

ノルマン人のタンクレード・ド・オートヴィルの六男として生まれる。オートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄達は1042年にイタリアのプッリャ伯になった。ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアのロンバルディアに向かった。その時は5人の騎士と30人の従者を連れただけで、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプッリャ伯となり、弟のルッジェーロ達と共にカラブリア、シチリア等の諸都市を征服していった。

詳細は「ノルマン人による南イタリア征服#シチリアの征服、1061年–1091年」を参照

ローマ教皇ニコラウス2世は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手懐けるため、1059年にロベルトをプッリャ、カラブリア、シチリアに正式に封じた。但し、いまだこの地方はサラセン人や東ローマ皇帝領が点在していた。その後、1068年にアフリカのジリア朝から送られた軍隊を打ち負かし、1076年までに弟と共にシチリアと南イタリアの多くを征服した。たとえば、当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィが1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティウス10世の軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。

ローマ人との戦い: 1081年に東ローマ帝国征服を目指し、東ローマ皇帝アレクシオス1世の軍を破り、コルフとアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれにより神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にサンタンジェロ城を包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世の救出に呼び戻された。ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月にローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモンが占領地を失ったため、再び東ローマ遠征を行ったが、1085年7月17日に熱病で亡くなった。

補註)参考地図は・・

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Italy_and_Illyria_1084_AD.svg

ロベルトのバルカン遠征中のノルマン人による征服:カプア公国プッリャ・カラブリア公およびシチリア伯国がノルマン人国家。シチリア首長国、ナポリ公国およびアブルッツォ(スポレート公国南部)は征服されていなかった。

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補註: 同じく11世紀、1066年のノルマン人(ギヨーム二世=ウィリアム一世)によるイングランド征服を参照。武力に長けたノルマン人たちがノルマンディーに留まることなく、ノルマンディー公のイングランド、オートヴィル家のシチリア、第一次十字軍へと征服の歩を進めていく。彼らは定住志向の農業民族ではない。商業と征服を生業としているバイキング、ゲルマン人の一派なのである。

ウェブ情報によると・・ <以下引用>

ノルマン‐じん【ノルマン人】《Norman》スカンジナビア半島・デンマーク地方を原住地としたゲルマンの一派。 航海術に長じ、8世紀ごろからバイキングとして欧州各地に侵入。 10世紀、一部がノルマンディー地方に移住、11世紀にイングランドを征服してノルマン朝を建て、また、両シチリア王国・ノブゴロド公国を建国した。

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12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す。 Image:Normannen.png created by de:Captain Blood (originally taken from the German Wikipedia)Map in French of the Normans’ possessions in the 12th century

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