literature & arts

「私」という語そのものがフィクション。同時にそのフィクション仕立てそのものを意識的に種明かしする。

2021年1月15日 金曜日 曇り

小浜逸郎 ことばの闘い より<以下引用> 2021年01月12日 付け「太宰治の短編5つ(その1)

太宰作品には太宰自身と思しき主人公が一人称で頻出しますが、太宰は私小説作家ではありません。このことを押さえることが太宰文学の理解にとってまず何よりも重要です。

File:Osamu Dazai 2.jpg, Osamu Dazai in Mitaka, Tokyo. Date 1944 Source http://www.bungakukan

「私」が太宰自身でないことのしつこい言及・・・(中略)・・・「私」はここでは二重にからみあった存在として描かれていて、自己韜晦と自己執着の表裏になった構造が見られます。これが太宰の表現意識の原型と言ってもよいでしょう。「私」という語そのものがフィクションとして設定されていますが、同時にそのフィクション仕立てそのものを意識的に種明かしする――この方法のうちに、人はいかにも太宰的表現の典型を見出すでしょう。メタ「私」、メタメタ「私」と呼んでもいいかもしれません。

『春の盗賊』に見られた二重化された「私」、いつも生身の「私」を超越する「私」の視点を作者はけっして離しません。

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太宰の「『語り』の位相」

・・ですがその見逃さない奥さんの視点を描くのは太宰自身であるという事実に注目しましよう。
この作品と前作とをセットにして読むことで、男と女とが、この日をどのように迎えたかが、よくできた夫婦漫才のように見えてくる仕掛けになっています。

太宰治の2番目の妻石原美知子

・・語り手をチェンジさせることによってすぐに「語り」の素材にしてしまう醒めた目こそが、文学者としての太宰の本領なのです。優れた語り師はこのように、自分自身とその周りとに絶えず気を張り巡らせています。・・・(中略)・・・ 優れた「語り」には、「やんちゃの虫」「ユーモアとパロディの精神」「自分を突き放す二重の目」がぜひ必要なのです。

小浜逸郎 ことばの闘い  2021年01月12日 付け太宰治の短編5つ(その1)より <以上、引用終わり>

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Dazai at his home. Mitaka, Tokyo.

いったい、小説の中に、「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、・・昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑する悪癖がある。(太宰、春の盗賊、筑摩文庫版太宰治全集3 p112)


私小説を書く場合でさえ、作者は、たいてい自身を「いい子」にして書いて在る。「いい子」でない自叙伝的小説の主人公があったろうか。・・私は事実そのような疑問にひっかかり、「私」という主人公を、一ばん性のわるい悪魔的なものとして描出しようと試みた。へんに「いい子」になって、人々の同情をひくよりは、かえって潔いことだと思っていた。それが、いけなかったのである。現世には、現世の限度というものが在るらしい。(太宰、春の盗賊、筑摩文庫版太宰治全集3、p112-113)


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次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。(太宰、春の盗賊、筑摩文庫版太宰治全集3、p116)


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