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太宰治と山本周五郎: 単なる人生肯定ではなく、虚無に通じる絶望と諦念をふまえての、人間讃歌である。

2023年4月2日 日曜日 曇り

奥野健男 山本周五郎 創樹社 1977年

・・ぼくは、自分の人生のほかに、より真実で純粋な人生を創り出すという文学、小説の苛酷さを、それに真に打ち込んだこの二人の作家を通して、改めて感じる。文学とは、自分の生涯の破滅を覚悟してはじめて行われ得る、人間の力を超えた神(補註*)を怖れぬ仕事なのだと。(奥野、「太宰治と山本周五郎」、同書p17)

 ・・一冊の山本周五郎の本とめぐり合う。その時、人は太宰治以来、忘れていた魂に直接語りかける文学に接し、心のときめきをおぼえるに違いない。そうだ自分はこの世で広く認められなくてもよい、出世しなくてもよい、悪人、時代遅れとそしられてもよい。しかしこの人間の世界、宇宙の中で、なにかひとつ確かな役割を立派に果たせばよいのだ、いや果たせなくても果たそうと願っていることだけ(補註##)で価値があるのだ、と山本周五郎の文学がこの人々の人生に灯を点じる。心の底に沁み通ってくる感動、自分の体が透明になるような感銘をおぼえるのだ。

 それは絶望、虚無の涯に見出したつつましやかな生き甲斐かも知れぬ。太宰治が『灯籠』で表現した、世間からそしられた貧しい一家の侘しい、しかし、シーンとした幸福と同じかも知れない。青春の理想を失い、こと志と違った挫折を体験して来た、真面目な、けれど疲れた中年者に山本周五郎の文学ほど胸にせまってくる表現はない。真実がこの世のどこかに生きているのだと信じることのできる救いである。・・山本周五郎はあくまでこの世に反逆した人間も、この世に耐えながら順応した人間をも、同じ人間の誠実さとして、一回限りの人生をせいいっぱい自分の考えにしたがって生きた人間として、いとおしみ、共感しながら描いているのだ。単なる人生肯定ではなく、虚無に通じる絶望と諦念をふまえての、人間讃歌である。太宰治が青春の文学であるとすれば(補註%%)、山本周五郎は生活を経た中年の文学と言えるであろう。(奥野、「太宰治と山本周五郎」、同書、p18-19)

 補註* 著者(奥野氏)は、慣用的なありふれた表現として「神」という言葉を使っているのだとは思うが、私(補註者)なりに厳密に考えると、以下の通り: 日本の神さまが文学のような人間の営みに不用意に干渉してくることは考えられない。したがって、この場合は、人間を創造しその営みすべてを知っている全能者としての「神」すなわち、旧約聖書の神(ユダヤ教や西洋文明、特にキリスト教文明の神)を想定した「神」という言葉の使い方だと思う。奥野氏が熱心なキリスト教信者か否かは補註者が知り得ようもないが、私たち日本人には、私たち日本人の神さまがある。そのため、できるだけ無用な混乱を避けるためという意味からも、「キリスト教・ヨーロッパ文明の神」を慣用的なありふれた表現としては引っぱり出さない方が無難だと思うのである。

 補註## 「果たせなくても果たそうと願っていることだけ」でよいのかというと、細かく云うと「単に願うだけ」では願ったことにならない。思うだけ願うだけではなく、たとえ完遂できなくても、実際に行うこと、多くの犠牲を払い、多くの時間と真摯な苦悩を経ることなくしては、「果たせなくても果たそうと願っていること」にはならないのである。では、どこにその線が引けるのか?・・それは非常に難しい。法然上人ならその答えを教えてくださるはずである。けれど現在進行形で、同時代人の多くの(すなわち世間と云うものを構成している)人々、うっかりものの通り掛かりの他者が容易に評価して線を引けるものではない。一方で、「果たせなくても果たそうと努めている」本人(自分自身)でも、その線をどこに置けばいいのか、どこまで執拗に、結果に結びつくことのない(かもしれない)営みを続けるべきなのか、どこで挫折を受け入れることにすればよいのか、わからないし、後になってもわからなかったとしか思えないだろう。むずかしい。周五郎さんの「虚空遍歴」はそれを正面から見据えた物語となっている。そして、周五郎さんがこの『虚空遍歴』という小説の中で「描き果たそうと努めた」ことは痛いほど伝わってくるのであるが、やはり「描くことで果たせたのか?」という問いに対しては、・・今の私には、保留としておいた方がよい、けれど考え続けて行きたい・・という読後感である。そして、簡単には解決の与えられない課題の提起・・このような読後感が、「小説」というジャンルの営みの独特な本来の姿なのかも知れない。

 補註%% 私自身の個人的な歴史であるが、若いころは太宰治をそれほど共感をもって読む事ができなかった。50代、いわゆる中年になってから、「生活を経た中年の文学」として太宰治の作品を好きになった。そんな私である。

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