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「書紀」編者は、讖緯説的に暗示したり事実を神代に投影したりしている

2016年3月1日 火曜日 吹雪

小林惠子 倭王たちの七世紀 天皇制初発と謎の倭王 現代思潮社 1991年

「書紀」編者は、讖緯説的に暗示したり事実を神代に投影したりして、史実を後世に伝えようとしている

「書紀」の完成された時代には、すでに第一次ナショナリズムの高揚した時代であるから、民族の統一性・天皇絶対性を確立するため、史実を歪曲・隠蔽している箇所は多い。 しかしながら、私のみるところ、「書紀」はそれでもなお、良心的な編者が、讖緯説的に暗示したり、事実を神代に投影したりして史実を後世の者に伝えようと、必死のメッセージを送っているような気がする。 この古代のメッセージに答えるのが、現代に生きる我々の任務であると思うのである。(小林惠子、同書、p3)

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文武王の出自
文武王の生誕の時の様子が「新羅本紀」にみえる。・・この話に似た説話に、ペルシアのアケメネス朝初代のキュロス一世(在位BC六四〇から六〇〇年)の生誕伝承がある。・・ペルシア系の説話は西突厥などから北方ステップ・ルートを通じて、意外に詳しく極東地域に知られていたらしい。 しかも金庾信一族は中央アジアの亀茲国にルーツを持つ、加羅(任那)国の直系の子孫なのである(「三国史記」列伝)。 キュロス一世は王朝の始祖であると共に捨てられた子である。そこには王朝の断絶だけではなく、メディアとペルシアという民族の違いも暗示されていると思う。 つまり、「新羅本紀」は文武王生誕説話で武烈王と文武王が父子でないことと、文武王の実父が新羅人でないことを暗示していると思う。(小林、同書、p194)

天武と文武王のつながり
七世紀後半から、突然、新羅と日本に両棟式伽藍配置の寺院が盛行した。・・七世紀後半の新羅の四天王寺が最初といわれている。・・初期の形をとる場合、新羅・日本を問わず、天武・文武王の追悼寺としての性格を内在しているようである。 大和の薬師寺は・・天武九年に文武王の追悼寺として天武によって発願され、天武が天武一一年に亡くなってから、天武の追悼寺としての性格に変わった。しかし、個人的な追悼寺としての性格よりも、東塔は天武すなわち東の日本、西塔は文武王、西の新羅を表象したと思われる。 それにしても、両者は生存中、協力して唐国と戦い、助け合ったにしても、同じ寺院に併祀されるというのは国が違うだけに異様ではないか。 どう考えても、倭国王と新羅王が両方の国で同時に祭られるのは、ただごとではない。(小林惠子、同書、p195)

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亀茲
ウィキペディアによると・・・
亀茲(きじ、呉音:くし、漢音:きゅうし、拼音:Qiūzī)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近にあたり、タリム盆地の北側(天山南路)に位置した。丘茲、屈茲とも書かれ、玄奘の『大唐西域記』では屈支国(くつしこく)と記されている。
<以上、引用終わり>

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