culture & history

大津と山辺の悲恋物語

2016年3月2日 水曜日 くもり

小林惠子 倭王たちの七世紀 天皇制初発と謎の倭王 現代思潮社 1991年

夫が死んで妻が尼になることは、ままある例であるが、夫の死に殉じた例は「書紀」「続日本紀」の時代を通じて山辺以外にない。(小林、同書、p217)

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大津皇子の恋
「書紀」の允恭紀に衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の話と木梨軽皇子と同母妹の軽の大娘皇女との悲恋物語が載っている。允恭紀の二つの説話を独立したものとしないで、一つにまとめると、大津と山辺の悲恋物語になり、これを「書紀」の作者は意識的に投影させているようである。(小林、同書、p228)

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)の話は允恭の七年から一一年の話であるが、二三年から木梨軽皇子の悲恋物語となる。・・そこで「書紀」では軽大娘(かるのおおいらつめ)を、「古事記」では木梨を伊予に島流に処するというのである。 「古事記」には次のようにみえるが、かなり、大津晩年の政治情勢を反映しているようである。・・ここでは、すでに允恭という天皇は存在せず、木梨と穴穂の抗争に大前小前宿禰が加わっている。(小林、同書、p230)

これらの歌から推量されるのは、大津の恋は道理に反する道ならぬ恋ではなかったかということである。 そう、大津は高根の花に恋していたのである。大津にとって高根の花とは天武の妃達以外にない。そこで「懐風藻」にみえる大津の詩からも、允恭紀の衣通姫とは山辺がモデルであったことが推量されるのである。 「万葉集」には大伯、実は山辺の歌に続いて大津と山辺の核心に迫る三首がある。・・・(巻二・一〇七・一〇八・一〇九) ここでは、大津の相手は石川郎女(いらつめ)ということになっている。・・・つまり、占いをする者が、二人の恋を暴露することは承知で、結ばれたという開き直りの歌であるのに間違いない。 したがって、大津がそれほどの覚悟をしなければならない女性は石川郎女という、いわば普通の女性であるはずはないのである。 この場合の石川郎女は山辺の偽名として使われていると思う。・・当時は大津と山辺との関係は公然の秘密であったかも知れないが、「万葉集」の編者がまだ差し障りがあるので山辺の名は出さず石川郎女の名のもとに載せたと推測する。(小林、同書、p234)

しかし、何と言っても「万葉集」の主要テーマの一つは、大津と山辺の悲恋の真相を語ることにあったと推量されるのである。 今まで述べた理由により、山辺は大津が殺されれば生きてはいられなかったのだし、死後も火葬されるという刑罰に処せられたと思われる。 もちろん、鸕野の立場からして、特に熱心に山辺を死に追いやり、火葬にするのを主導したのも鸕野であったろう。 人麿の歌などにみえる、火葬された乙女への哀感あふれる挽歌はモデルがあるからこそ、万感迫るものがあって、人を感動させるのではないだろうか。(小林、同書、p248-249)

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補注: 山辺皇女 ウィキペディアによると・・・
山辺皇女(やまのべのひめみこ、663年(天智天皇2年)? – 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。天智天皇の皇女、母は常陸娘。大津皇子の正妃。
生涯
663年、天智天皇の皇女として誕生。母は蘇我赤兄の娘・常陸娘。
大津皇子の正妃となったが、686年(朱鳥元年)に皇子が謀反の意ありとして捕えられて磐余の自邸で死を賜ったのに伴い殉死した。その様子は『日本書紀』に「被髪徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷(髪を振り乱して裸足で走り、殉死した。それを見た者は皆嘆き悲しんだ)」と記されている。
<以上、引用終わり>

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補注:
衣通姫 ウィキペディアによると・・・
衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。
記紀の間で衣通姫の設定が異なる。
『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。
『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている。
<以上、引用終わり>

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