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邪馬臺国の位置と時代を南西諸島紀元前一世紀とする小林説

2016年3月3日 木曜日 曇り

小林惠子 興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年 文藝春秋 1998年

邪馬臺国の位置と時代に関する南西諸島紀元前一世紀説

邪馬臺国の位置に関する小林惠子説:倭人伝は紀元前一世紀前後の列島と、紀元三世紀の列島の様子を併記している

漢書・地理志の中の邪馬臺国
紀元前一〇八年に漢の武帝は衛満の孫が統治していた衛氏朝鮮を攻め滅ぼし、楽浪郡(平壌市)他三郡を半島に設置した。 この時、武帝以下、中国の中枢部の人々に、始めて列島の存在が確認されたとみえ、「漢書」地理志に「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国歳時を以て献見
に来るという」とある。・・「魏志倭人伝」の倭人の記述には、これら前漢時代の倭人の使者によって、もたらされた列島の情報が含まれていると私は思っている。・・倭人伝の記述の中には、三世紀の列島の情勢だけではなく、「漢書」が記載しなかった紀元前の列島の様子が窺えるからである。・・倭人伝の記述をみると中心国である邪馬臺国への旅程、及び風土、習性など、邪馬臺国は九州以南でなければ考えられない。しかし倭人伝の成立した時代、つまり三世紀当時の列島の中心はすでに北九州から近畿地方に移りつつあった。 これについて、私は倭人伝は紀元前一世紀前後の列島と、三世紀の列島の様子を併記していると考えている。倭人伝では道程からみて、南西諸島の奄美大島、及び種子島を中心にする大隅諸島の島々が列島の中心として認識されている。(小林、同書、p27の下段のカラム-p28上段-下段)

三世紀の列島の中心はすでに北九州にあった。紀元前に栄えた南西諸島への道程については、もともと中国人は完全には知らなかったのではないか。・・陳寿は不弥国以降は距離ではなく、どうにでも解釈できて、距離としてはあいまいな日数による道程の記述をしたのではないだろうか。 私は「倭人伝」にある「南に水行二十日」をそのまま南と受け止め、不弥国からではなく、北九州から南に航路をとったという意味に考えたい。・・問題は水行十日に続く陸行一か月である。大隅諸島や奄美諸島には歩いて一か月もかかるような大きな島はない。・・このような「倭人伝」の道程と、次に記載されている風俗習慣からみて、私は邪馬臺国を一応奄美大島に比定したい。(小林惠子、同書、p30-31)

「倭人伝」では邪馬臺国の所在地を半島からの道程で示す他、会稽・東冶の東と規定している。会稽・東冶の東は沖縄・奄美大島を含む南西諸島しかない。・・当時は現在より平均気温が一から二度低いから、北九州では冬も上半身ハダカというわけにはいかなかっただろう。このような気候風土、衣服に関しての記述からみて、邪馬臺国は九州ではなく、亜熱帯に近い南西諸島と考えるのが自然である。(小林惠子、同書、p33)

奄美大島では大巫女(おおみこ)を「フミコ」というそうだが、卑弥呼との関連が考えられる。私は卑弥呼とは個人名ではなく、南西諸島に代々受け継がれる祭政一致の女王を指す官職名に近いのではないかと思っている。(小林惠子、同書、p34上段)

しかし紀元前二から一世紀になると、秦に滅ぼされた中国東北部の燕国の影響が半島を通じて北九州におよび、北九州を中心にして小国が乱立した。・・次第に列島の主体勢力は南西諸島から北九州に移行しつつあったのである。(小林惠子、同書、p34下段)

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邪馬台国(邪馬臺国)ウィキペディアによると・・・
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」と表記する。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。
なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。 邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。

魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

<以上、ウィキペディアより引用>

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