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古代日本外交史を東部ユーラシアの視点から読み直す

2016年3月4日 金曜日 雪 冬が長いのはいささかうんざり、しかし読書の進み方も遅々としているので、春になってもらっても困る。

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廣瀬憲雄 古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す 講談社選書メチエ 2014年

唐代の外交文書の多くはすでに散逸しているのだが、研究者のあいだでは有名な「勅日本国王主明楽美御徳(スメラミコト、当時は聖武天皇)書」など、張九齢が起草した外交文書は散逸を免れて「曲江集」のなかに残存している。(廣瀬、同書、p3)

玄宗皇帝治世下の唐は、周辺諸勢力のなかでは、どれを重視していたのであろうか。・・正解は、1)吐蕃、2)突厥、3)突騎施(とつきし)、4)新羅、5)契丹、6)南詔(なんしょう) 7)渤海、8)日本 9)西域諸国の順である。(6・7と8・9は逆でも可)。おそらくこの結果は、多くの方は意外なものとして受け止めるのではないだろうか。・・唐が重視した勢力は、唐の北方から西方にかけて存在した、唐と肩を並べる軍事力を保持していた遊牧国家と言える。(廣瀬、同書、p4-5)

八世紀から九世紀にかけて、唐と吐蕃は互いに対等な立場で何度も盟約を締結しており、両者の関係は上下関係よりも対等関係に近い。(廣瀬、同書、p6-7)

第一次南北朝時代の国際関係
最終的にこの国際関係が崩壊したのは、侯景(こうけい)の乱・突厥の登場・新羅の台頭を経た、五五〇年前後のことである。 このうち、五四八年に発生した侯景の乱は、約五十年つづいた南朝・梁の武帝政権を崩壊させ、江南を分裂に導いたことで有名である(なお、侯景は五五〇年に「宇宙大将軍」を自称している)。しかし、より広い視点から見た場合、侯景の乱は梁の滅亡だけではなく、南朝全体の没落につながる大きな事件と考えることができる。なぜなら、江南の分裂に乗じるかたちで、五五三年に西魏が蜀の成都を占領した結果、それまで保たれてきた南北朝間の勢力均衡が崩壊してしまい、梁の後を受けて成立した南朝最後の王朝・陳は、蜀や江陵などの要地を欠く地方政権に転落するからである。(廣瀬、同書、p127)

突厥の登場 ーー「世界帝国」の成立
侯景の乱が中国内地の歴史における画期なのに対して、東部ユーラシアの歴史における画期としては、漠北における突厥の登場を挙げることができる。・・この突厥第一帝国は、それまでの柔然可汗国とは大きく異なる、画期的な帝国である。領域図を見ていただければ一目瞭然であるが、突厥第一帝国の最盛期には、漠北と漠南を押さえただけではなく、中央アジアに勢力を及ぼしていたエフタルをササン朝ペルシアと協力して滅ぼすなど、イランにまで至る広大な領域を支配していた。これは「世界帝国」の名にふさわしい広がりであり、・・東ローマ帝国とも関係を持つ突厥第一帝国は、明らかに「世界帝国」の資質を備えた勢力と考えなければならない。 一方で、突厥第一帝国は中国王朝とも通交していたのだが、柔然時代に南の北魏優位で進められた南北関係は、突厥の強大化に伴い逆転して、北の突厥優位で進められた。・・このような突厥優位の南北関係、あるいは「世界帝国」としての突厥第一帝国は、可汗国が成立した五五二年から東西に分裂する五八三年まで、約三〇年にわたり継続していた。(廣瀬、同書、p128-129)

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