2016年12月22日 木曜日 雪(ないし雨)
カレル・チャペック いろいろな人たち チェペック・エッセイ集 飯島周編訳 平凡社ライブラリー90 1995年
(チャペック、アメリカニズムについて 1926年、同書、pp284-292)
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アメリカの「能率(efficiency)」は生産の増加と関係するが、生活の増加とはなんの関係もありません。人間は生きるために働く、というのは真理です。しかし働いているその瞬間にも、人間は生きていると思われます。(チャペック、同書、p288)
新しいアメリカがあわれなヨーロッパに提示する第二のモットーは、成功というおおいなる言葉です。・・成功は人生の目標であり意味なのだ!ーーーこのモットーがいかにヨーロッパを堕落させはじめているか、それは実際に危険です。(チャペック、アメリカニズムについて 1926年、同書、p290)
われわれを脅かす第三のモットーは量であります。アメリカの人たちがわれわれに伝える奇妙で不思議な信仰は、最大とは偉大なことだ、ということです。・・アメリカは、その大きさへの偏愛でわれわれを堕落させています。ヨーロッパは規模の大きさへの狂信を獲得するや否や、自分自身を失うことになるでしょう。その尺度は量ではなく、完全度です。それは美しいヴィーナスの像であって、自由の女神の大きな像ではけっしてありません。(チャペック、アメリカニズムについて 1926年、同書、p291-292)
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補註 「アメリカ的なもの」か?
「能率・世俗的成功・大きさへの偏愛、これらアメリカ的なもの」に価値を置くことによって、ヨーロッパが自分自身を失い堕落する、そう考えたいチャペック氏の気持ちは良く分かる。しかし、このアメリカ的なものは、もともとヨーロッパが持っていて目指してきたものであり、アメリカという派出所で相対速度を速めて実現されつつあるもの、つまり広い意味で「ヨーロッパ的なもの」と呼ぶべきものかと思う。また、欧米諸国に止まらず、この1926年(大正15年-昭和元年)時点ではわが日本でも英米に追いつき追い越せの価値観が席巻しつつあっただろう。
このエッセイの発表から90年の年月を経た二十一世紀の現在、暴風域を拡げ風速を増した「アメリカニズム」の嵐が世界中の人々(その中には私も含まれる)の心のなかで吹き荒れているのではないか。そのような意味で、若干の修正を必要とするものの、チャペック氏の警鐘はそのまま現代のわれわれ(そして私)にも響いてくるのである。
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