読書ノート

濵田伊平(高祖父、不明ーM9.4.26)濵田玉蔵(曾祖父、文久二年ーM38.6.14)

濵田玉蔵さんの除籍謄本:

明治25年3月21日 在籍より移る 岡山県勝南郡北和気村大字宮山(40番邸)612番地

現・岡山県久米郡美咲町 除籍謄本より:

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濵田玉蔵 濵田伊平長男 文久二年4月3日生まれ(1862年)

明治9年4月26日(1876年) 相続 (HH注:伊平さんが亡くなった日と思われる。本書類は玉蔵さんの除籍謄本なので、伊平さんの生まれた日付は不明) (HH注:1854年・1857年・1862年にそれぞれ、けうさん・たつさん・玉蔵さんが生まれている。1854年に伊平さんが25-30歳だったと仮定すると、伊平さんが生まれたのは1825-30年ごろ、なくなったのは1876年で伊平さんは46-51歳、玉蔵さんが14歳の時。玉蔵さんも明治38年(1905年)、43歳の時に亡くなっている。玉蔵さん・仙太郎さんともに13,4歳で父親を亡くしており、成人するまでに苦労が多かったことと思われる。伊平・玉蔵・仙太郎・鶴夫の4代にわたって濵田家の男性は若死にする傾向があったかもしれない。ただし、菊江・好一・君子以下は皆88歳以上の長寿である)

明治38年6月14日午前3時死亡 同月14日届出・同日受付 明治39年11月14日長男仙太郎家督相続届出

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伊平さんの長女けうさんに関しては後述されている。

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たつ 伊平二女 安政4年7月7日生まれ(1857年)(玉蔵さんの姉)

明治18年11月11日 本郡(勝南郡)勝間田村 赤堀瀧蔵妻離婚復籍(現戸主の玉蔵さんの戸籍に復籍した)
明治21年7月20日 本村(北和気村)野上友五郎に嫁す(同じ村の野上さんのところへ再婚した)

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はる (たつさんと赤堀瀧蔵さんの長女・玉蔵さんの姪・仙太郎さんの従姉妹、一時期は玉蔵さんの養女)
明治14年7月15日生まれ 明治19年1月18日本郡(勝南郡)勝間田村赤堀瀧蔵長女入籍 (はるさんは、4歳6か月で、お母さんのたつさんとお父さんの赤堀瀧蔵さんとの離婚に伴い、叔父の玉蔵さんのところにたつさんと一緒に来て、濵田玉蔵の養女となった。この時玉蔵さんは若干24,5歳の若さで独身である。) 明治21年7月10日本郡勝間田村赤堀瀧蔵へ離縁送籍。(はるさんは7歳、母のたつさんの再婚に際して、実父の赤堀瀧蔵さんの籍へと移った。濵田玉蔵さんとは離縁、つまり、玉蔵さんの養女からはずれた。父違いの妹のたかさんが生まれたあとすぐに赤堀瀧蔵さんのところへ返された。)

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たか 玉蔵さんの姉たつの娘。明治21年6月26日生まれ。明治22年6月3日、本村(北和気村)の野上友五郎・長女として送籍した。母のたつさんが、たかさんが生まれた翌月(明治21年7月20日)野上さんのところへ再婚入籍し、その約1年後にたかさんも野上家に入籍した。

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すえ(壽江)明治3年7月25日生まれ 明治24年9月9日岡山県西西條郡院庄村大字院庄 秋田鶴蔵二女入籍 玉蔵さんの妻(注:玉蔵さんの没後、片田金蔵さんと再婚)

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けう(伊平さんの長女・玉蔵さんの姉・仙太郎さんの伯母さん・好一さんの大伯母さん)安政元年6月15日(1854年)生まれ
明治24年9月18日岡山県勝北郡植月村植月北 福本宇助妻離婚復籍 明治27年4月25日岡山県勝北郡植月村植月東 福本宇助妻へ送籍
(注:明治24年から2年半ほど、濵田玉蔵さんの戸籍に復籍したあと、おなじ福本宇助さんの妻に。この時、けうさんは、1891-1854=37歳、40歳、・・・詳細不明。また、福本宇助さんの住所が植月北から東に変わっており、役所の記載ミスか、福本宇助さんが引っ越したのか、詳細不明である)

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仙太郎 明治25年3月17日生まれ 玉蔵さん30歳と壽江さん22歳の長男

まさよ 明治29年12月9日生まれ 同、長女 明治32年1月10日午後12時死亡 同月11日届出同日受付
(仙太郎さんの妹まさよさんは、2歳2か月で死亡)

さとの 明治35年4月2日生まれ(同月10日届出) 玉蔵さんと壽江さんの二女・仙太郎さんの妹
大正9年4月28日届出・勝田郡南和気村大字下谷143番地戸主村瀬作一と婚姻

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濵田仙太郎さんの除籍謄本:

岡山県勝田郡北和気村大字宮山612番地

仙太郎・母壽江・妹さとの、3人家族。

注: 明治42年3月31日 本郡(この時点では勝田郡)高取村大字為本520番地へ転籍届出・北和気村の仙太郎さんの戸籍はここで除籍。壽江さん34歳の時に玉蔵さん44歳が亡くなり、その4年後、壽江さん38歳の時に、17歳の仙太郎さんと7歳のさとのさんを連れ子として、為本の片田金蔵さんの妻として再婚した(昭和17年の金蔵さんの亡くなるまで結局、妻として片田家への入籍はされなかった)。再婚後、壽江さんには子供ができなかったようだ。為本520番地には片田金蔵家と濵田仙太郎家とが同居する形になった。昭和17年、金蔵さんが亡くなるとともに、片田志ようが家督相続したものの、同年12月、片田家は廃籍。片田の苗字を継いでいた志ようさん・鶴夫さん・富美(とみよし)さんが濵田の苗字・戸籍に編入された。片田菊江さんはそれ以前に片田忠男さんと結婚していたので、濵田の戸籍に入ることはなかった。壽江さんはもともと濵田の戸籍のまま。

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注: 玉蔵さんの位牌で
恵 明治3年4月25日没
空 明治8年12月16日没
の二人の女性は、玉蔵さんの妹(けう・たつの妹・伊平さんの三女以下)、玉蔵さんの母(伊平さんの妻)、玉蔵さんの祖母(伊平さんの母)、その他(玉蔵さんの伯母叔母祖母曾祖母など)の可能性があり、お寺の過去帳を見なければわからない。玉蔵さんの母なら玲央からは五親等の祖先である。)

HH: 恵さん(明治3年没)・空さん(明治8年没)・伊平さん(明治9年没)
位牌に玉蔵さんの横に併記されていることから推測して、もっとも蓋然性の高い可能性は
恵さんが伊平さんの妻でけう・たつ・玉蔵の三人を生み、明治3年没(玉蔵は8歳)、そのあと伊平さんの後妻として空さんが嫁いできたもののいくらもいっしょに暮らさないうちに空さん・伊平さんが相次いで亡くなった(玉蔵さんは、若干13,14歳)という仮説である。

住んでいたのは、明治25年の時点では、北和気村大字宮山612番地。玉蔵さんが明治38年に亡くなり、壽江さんが明治42年に為本の片田金蔵さんに嫁いでくるまでは、この住所。明治42年以後は、この宮山612番地はどうなったのであろうか。また、伊平さんが明治9年に亡くなってから、14歳の玉蔵さんは、(8歳上・5歳上の二人の姉がいるものの)どうやって暮らしを立てていたのであろうか。

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