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伯耆山椒魚のお話 vs 作州山椒魚の思い出

2020年12月19日 土曜日 曇り

昨日に続いて、「黄村先生言行録」のお話しから、<以下引用。青空文庫より>

「・・私は、山椒魚を尊敬している。出来る事なら、わが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っているのですがね。」懸命の様子である。

「だから、それが気にくわないというのです。医学の為とか、あるいは学校の教育資料とか何とか、そんな事なら話はわかるが、道楽隠居が緋鯉にも飽きた、ドイツ鯉もつまらぬ、山椒魚はどうだろう、朝夕相親しみたい、まあ一つ飲め、そんなふざけたお話に、まともにつき合っておられますか。酔狂もいい加減になさい。こっちは大事な商売をほったらかして来ているんだ。唐変木め。ばかばかしいのを通り越して腹が立ちます。」

「これは弱った。有閑階級に対する鬱憤積怨というやつだ。なんとか事態をまるくおさめる工夫は無いものか。これは、どうも意外の風雲。」

「ごまかしなさんな。見えすいていますよ。落ちついた振りをしていても、火燵の中の膝頭が、さっきからがくがく震えているじゃありませんか。」

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「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。昔から、そういう事になっているんだ。小さすぎる? 悪かったね。あれでも、私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。一万円でも手放しやしない。一尺二十円とは、笑わせやがる。旦那、間が抜けて見えますぜ。」

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 先生は、よろよろと立ち上った。私のほうを見て、悲しそうに微笑んで、「君、手帖に書いて置いてくれ給え。趣味の古代論者、多忙の生活人に叱咤せらる。そもそも南方の強か、北方の強か。」

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「趣味の古代論者、多忙の生活人に叱咤せらる。南方の強か、北方の強か。」とかいう先生の謎のような一言を考えると、また奇妙にくすぐったくなって来るのも事実である。ご存じであろうけれども、南方の強、北方の強、という言葉は、中庸第十章にも見えているようであるが、それとこれとの間に於いては別段、深い意味もないように、私には思われる。(以上、「黄村先生言行録」より引用。青空文庫の現代仮名遣い版から)


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「・・別段、こだわるわけではありませんが、作州の津山から九里ばかり山奥へはいったところに向湯原村というところがありまして、そこにハンザキ大明神という神様を祀まつっている社があるそうです。ハンザキというのは山椒魚の方言のようなものでありまして、半分に引き裂かれてもなお生きているほど生活力が強いという意味があるのではなかろうかと思いますが、そのハンザキ大明神としてまつられてある山椒魚も、おそろしく強く荒々しいものであったそうで、さかんに人間をとって食べたという口碑がありまして、それは作陽誌という書物にも出ているようでございます。」(以上、「黄村先生言行録」より引用。青空文庫の現代仮名遣い版から。)


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補註: 実は私もオオサンショウウオを捕らえたことがある。中学生の私の夏の一日、故片田忠男伯父が元気だった頃、私たち家族も誘ってくれて、親族一同で、日帰りの野外自炊キャンプに出かけた。作州の津山から数里ばかり山奥へはいった奈義町は那岐山の麓、勢至丸(後の法然上人)そして宮本武蔵も所縁(ゆかり)の菩提寺への登り道あたりか、谷川の水は切れるほど冷たく澄んでいて、私は石を引っくり返したりして遊んでいる内に、見つけた、真っ黒な小さな、四つ脚の両棲類を。5〜6センチほどの有尾の姿は、津山城の動物園で幼い頃から見慣れていた天然記念物オオサンショウウオをそっくり小さくしたものであった。イモリも当時の私には見慣れた生きものであったが、それとは全く違う厳かさのようなものがあった。簡単に捕まえられた。ありあわせの容器に入れた。・・天然記念物に指定されており、無届け無許可で飼育したりはできないと大人から聞いたことがあった。が、物好きで何でももらって集めたがった私の父は以前に誰かから大きいのをもらって一時期自宅で飼っていたことがあり、それが町内の有識者に知られて警察さんかだれかに咎められて市に召し上げられてしまい、それが津山城の動物園の山椒魚の一匹に加えられたらしい、という話を(幼い頃の私は)ちらっと聞いたことがあった。・・そんな飼育御法度の天然記念物を中学生の私が捕獲して秘かに飼い続けていれば、五十年後の今ではそのチビが巨大な三尺オオサンショウウオに育っていただろう。が、その動物は私が皆とお昼を食べて少し眼を離しているすきに、ツルツルの容器に入れていたにもかかわらず、逃げ出して跡形もなくなっていたのであった。恐らく、小さいサンショウウオはどんな壁面でも簡単に歩くことが出来たのだろう。卵から孵って5,6センチにまで大きくなって五体満足に手足生えそろって大人のような顔をしていたからには、今も那岐山の麓に住んでヤマメやアユを食って生きているかも知れないと思う。


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