2020年12月18日 金曜日 小樽で過ごした一日。時に青空と陽射し、ほとんどは雪。
補註: 黄村先生言行録に次いで、黄村先生の花吹雪格闘事件: Kindle版・森鴎外全集の付録? この全集ではなぜか鴎外の作品の他に、鴎外に言及している(他の作家の)作品がいくつか収録されていて、これもその一つ。今回は敢えて著者名を伏せた読書ノートとしてみた。<長い昭和を通じて第一の文豪>・・と私の敬慕する作家、誰か当ててみて欲しい。ヒントは以下の引用にあり。
北海道ワインアカデミーの講義を聴講した後、雪降る夕刻の小樽から札幌に向かう高速バスの車内で、携帯電話の画面で読んだ、私には久々の小説。彼らしい、捻りの利いた諧謔味ある短篇。
<以下引用ただし若干の補註付き>
・・人間、がらでない事をするな、という教訓のようでもあり、いやいや、情熱の奔騰するところ、ためらわず進め! 墜落しても男子の本懐、何でもやってみる事だ、という激励のようでもあり、結局、私にも何が何やらわからないのだ。けれども、何が何やらわからぬ事実の中から、ふいと寂しく感ずるそれこそ、まことの教訓のような気もするのである。(同書、「花吹雪」より引用)
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女は、うぶ。この他には何も要らない。田舎でよく見かける風景だが、麦畑で若いお百姓が、サトやあい、と呼ぶと、はるか向こうでそのお里さんが、はああい、と実になんともうれしそうな恥ずかしそうな返事をするね。あれだ。あれだよ。あれでいいのだ。
・・・(中略)・・・
・・男は何かというと、これは、私も最近ようやく気付いた事で、・・
・・・(中略)・・・
男子の真価は、武術に在り!・・強くなくちゃいけない。(同、「花吹雪」より)
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明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも凛乎(りんこ)たる気韻がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。・・くんずほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。(同、「花吹雪」より。鴎外全集の第三巻に「懇親会」という短篇があるとのこと。作品発表は明四十二年五月、鴎外四十八歳。)
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・・あんな上品な紳士然たる鴎外でさえ、やる時にはやったのだ。私は駄目だ。二、三年前、本郷三丁目の角で、酔っぱらった大学生に喧嘩を売られて、私はその時、高下駄をはいていたのであるが、黙って立っていてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思った。 「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」 大学生もこれには張り合いが抜けた様子で・・・以下略・・・(同、「花吹雪」より)
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・・かなわぬまでも、やってみたらどうだ。お前にも憎い敵が二人や三人あった筈ではないか。しかるに、お前はいつも泣き寝入りだ。敢然とやったらどうだ。
・・・(中略)・・・
・・しかし、文人だって、鴎外などはやる時には大いにやった。「僕の震えているのが、わからんか。」などという妙な事を口走ってはいないのである。・・・(中略)・・・自重もくそも、あるもんか。なぜ、やらないのだ。実は、からだが少し、などと病人づらをしようたって駄目だ。むかしの武士は、血を吐きながらでも道場へ通ったものだ。(同、「花吹雪」より)
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(聖剣=武蔵の「独行道」)七、何の道にも別を悲しまず。
(この小説の語り手の)七、「サヨナラだけが人生だ」という先輩の詩句を口ずさみて酔泣きせし事あり。
補註:「サヨナラだけが人生だ」・・人生別離足るの意訳、以前にこのウェブサイトでも紹介しております。以下をご覧ください。〜人生きれば(生きては)別離足る
酒を勧む 花發(ひら)けば風雨多く 人生きれば(生きては)別離足(た)る
勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
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(この小説の語り手の)十六、・・然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。・・死にたくない命をも捨てなければならぬところに尊さがあるので、なんでもかんでも死にたくて、うろうろ死に場所を捜し廻っているのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやっぱり駄目なり。(同)
補註: (この小説の作者に)あんなに早く(三十九歳になる少し前)に死んで欲しくなかった。たとえ恥の多い人生であろうと、九十までもしぶとく生きて、われらの国語で書かれた貴重な財産をさらに大きな富として築き続けて欲しかった、と私は武蔵野の上水の畔を散策しながら思ったのだった(2014年の2月の思い出)。
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補註: ウィキペディアによると・・・津島美知子さんのお墓も禅林寺にあるとのこと。要、次回お参り。
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・・之(補註=山の神)と争って、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遙している時の気持ちの暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。(同)
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・・不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。(同)
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・・うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが萎縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。家へ帰ると、一通の手紙が私を待ち受けていた。・・・以下略・・・(同)
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補註: 2014年の早春、L氏の何度目もの大学受験の試験日の当日、その応援として、なぜか私も禅林寺に行ってみた。「森林太郎」のほか、一字も刻まれていない端然たる黒い墓碑のお墓がそこにあった。そして・・。<以下「花吹雪」よりの引用を踏まえ・・> 墓地の択り好みなんて出来る身分ではないし、はっきりと、身の程を知らなければならぬ私ではあるが、それ以来、私のこれから何十年も年老いて粗鬆となり尽くした白骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後にお参りしてくれる人があるかも知れないと、ひそかに甘い空想を家人や愚息に語ることもあったのである。もちろん、名前のほか一字も刻む必要はないのである。
が、これは林太郎先輩のように多く刻もうとすれば余白が足りないところを敢えて一字も刻まざるべしという意思のしからしむるところではなく、一字も刻むべき肩書きも業績も思い付かないために溜息交じりに諦められた結果によるところの墓標となるはずである。
ただし、捲土重来という言葉もあるぐらいで、これから三十年で何か一つぐらいという甘い甘い空想を・・雲を掴むような話である。その上でもやっぱりお墓には名前の他一字も刻むべきではないと思っていると言い残しておこう。負け惜しみにあらずと付け加えるのは負け惜しみのルサンチマンとなりそうなので言わないでおこう。
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舌鋒の鋭さでは他の追随を許さない巨人。子供たちからは愛され、対照的に、イングランドの文学者(たとえばヴァージニア・ウルフのお父さん、あるいはジョージ・オーウェルなど)の多くからは、憎まれ酷評されている。
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そして、文豪の中からとびきりの天才を一人挙げよと言われるなら、この人。(モームの意見ではあるが、私もそう思う。)その描写力は圧倒的! このウェブサイトでも以前にホーディング症候群の金貸しの紹介をしたことがある。バルザック ゴプセックーー高利貸し観察記 ただし、私はバルザック・ワールドには余り踏み込まない。泥沼のような世界で、抜け出すのが難しそうに見てとれるので自重している。
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深い味わいの文学として、誰か忘れてはいないか・・と思い返せば、この人。英語が難しくて、奥地までに分け入って行けていない。1857年生まれということなので、私の100歳上の先輩なのであった。
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そして、小説をものす美味さと言ったら、まずこの女史。英語はクリアでネイティヴでなくても親しみ易い。ほぼ全作品を取りあえず読み終えた私の個人的な好みとしては、いわゆる悪女とされている「Lady Suzan」が好きである。(以前にご紹介したウェブサイト https://quercus-mikasa.com/archives/5537 などもご参照下さい。) 売れなくても、「悪女シリーズ」を書き続けて大きな山として欲しかった。
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行きがかり上、今回は、簡単なクイズ風の、人物名を伏せての世界文豪巡りとなってしまった。そうくるならば・・文豪ものがたり作者としては、この藤原の女史を私の文豪巡りのトリとしたい。
世界の文学の中では圧倒的に古い。が、1000年の価値をもつ。1000年もの長きにわたって、人々が大切にしてきた。そして今も同じ悩み悲しみそして喜びを人々が生きている。
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こうしてみてくると、バルザックのような天才を除いては、あるいはジェーン・オースティンのような上手な語り手を除いては、多くの作家の多くの作品が、心と身を削ぐようにして書かれたものだと感慨を深くする。f.N氏が言ったように「血でかかれたもの」でなければ、数百年の生命を保ち得ないのかもしれない。
最後に、下の肖像写真は昭和23年の太宰治。先にも書いたように、もっともっと続けて書いて欲しかった。が、太宰が倒れたところから先は、後世の私たちが、書き継いでいくべき使命を負ってバトンを渡されたものかとも思う。
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<以下引用>
重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。(太宰治、如是我聞、昭和23年、より引用)
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