literature & arts

Austen’s epistolary novel, ‘Lady Susan’ (2)

2017年2月24日 金曜日 雪
深夜3時、明るい窓明かりで眼を覚ますと、外は激しい吹雪で、真っ白だった。お昼過ぎの現在、明るい陽差し・・見上げると狭い窓を通して晴れ間が見えた。

惣谷美智子 ジェイン・オースティン研究ーーーオースティンと言葉の共謀者たち— 旺史社 1993年

(前のページからの続き)・・読者は当然、悪党にはなれない。しかし、書簡のこちら側で、その共謀者には進んでなろうとする心づもりは既にできているのである。
 その共謀者としての第一歩は、スーザンの抗争は結局のところ、物欲的な、功利的な結婚成就への戦いではなく、むしろ自らが自らであることの闘争ではなかったかという疑いをさし挟みはじめることであろう。読者は、・・スーザンの自主独立への渇望、そしてさらには気魄といったものを反芻しはじめるのである。
 スーザンの鋭い認識こそ<自由意志>の防御柵となるものではなかったか。ということになれば、この鋭い認識と自由意志との関係は、読者にまた別の主人公を思い起こさせるであろう。「分別と多感」のエリナー・ダッシュウッドである。そしてなるほどエリナーはある意味では、メルトイユ夫人とも奇妙に重なるところがあったのではないだろうか。
 このように、スーザンは、メルトイユ夫人を介在させて、同じ身内の中でルーシィ・スティール、メアリ・クロフォードといった小悪魔ばかりでなく、産みの親である作家の認識さえも、ときとして代弁するエリナーとまでも結びついていくのである。
 しかし、当然ながら、スーザンとエリナーとには根本的な相違がある。メルトイユ夫人の場合がそうであるように、スーザンの場合もまた、その自己認識は社会性の中に浸透していくのではなく、いわばもっと頑なな、そして反逆的ですらある殻となってそこに留まりつづけるのだ。(惣谷、同書、p78-79)

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