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赤い人:囚人たちの慟哭を刻む樺戸集治監の歴史(明治14年〜大正7年)

2020年1月2日 木曜日 曇り

吉村昭 赤い人 講談社文庫・新装版 2012年(旧版は講談社文庫1984年、オリジナルは1977年「文学展望」の17・18号に分載された長篇)

囚人たちは、この地に監禁されるのではなく、丸木舟でさらに奥地に移送されることを知った。丸木舟が用意されていることは、目的の地が川の上流方向で、しかも陸路ではたどりつけぬ道も通じていぬ場所であることにも気づいた。かれらは、立ちすくんだ。船に乗ることは、死を意味しているように思えた。(吉村、同書、p30)

・・かれ(=医師立花晋)は、月形から死亡者数の記録を渡され表情をくもらせた。第一陣の囚人が集治監(補註:シュウジカンと読む)建設地に送り込まれて以来七百二十二名の囚人が収容されたが、わずか一年二か月に百一名の死亡者が出ていることを知ったのだ。 ・・かれは、病監におもむき、その粗末な造りに呆れていた。それは仮小舎に近いもので、病者を収容する部屋も床に蓆が敷いてあるだけで、畳もない。手術道具や医薬品も乏しく、囚人が治療らしいものを受けていないことが知れた。(吉村、同書、p139)

 ・・その頃(=明治十五年=1882年、七月)、内務省からの連絡で、樺戸集治監から約五里の位置にある石狩国空知郡市来知(いちきしり)村に集治監が開庁され、空知集治監と命名されたことが伝えられた。典獄は、新設に尽力した渡辺惟精(これあき)であった。(吉村、同書、p140)

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十一月五日(補註:明治15年、樺戸集治監の2年目)、初雪が舞った。・・その日、朱色の新しい股引と綿入れの獄衣が囚人たちに支給された。夏季の衣服ですごさねばならなかった前年の冬にひかくすればはるかに恵まれた扱いだったが、いぜんとして足袋は獄則として貸与が許されなかった。(吉村、同書、p152)

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渡辺惟精(わたなべこれあき) 補註: 人名辞典ウェブによると・・1845-1900 明治時代の官僚。弘化(こうか)2年11月25日生まれ。東京集治監典獄(監獄長)などをへて、明治15年北海道空知集治監初代典獄。空知郡長などをかね、地方行政にもつくした。同地市来知(いちきしり)村(三笠市)の貸し下げ地を離任時に村民にあたえたため、三笠開拓の父としたわれた。明治33年8月2日死去。56歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。<以上、引用終わり> 補註:ウィキペディアでは「渡辺惟精」の項目は立てられておらず、詳細は別に調べる必要がありそうだ。

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補註: 空知集治監 ウィキペディアでは「空知集治監」の項目は立てられておらず、ウェブ情報からは三笠市のジオパークのごく簡単な記載を以下に引用したい。一方、これとは対照的に、月形町のページではこの頃の郷土の歴史に関してかなり詳しく調べるきっかけになる記載がある。(月形歴史物語 月形町公式ホームページ参照・・http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5543.htm)。なので、三笠市ないし郷土史家の手によって、少し詳しい記載をしていただけると有意義かと思う。

三笠市のジオパークの記載から<以下引用>  

https://www.city.mikasa.hokkaido.jp/geopark/detail/00003383.html 空知集治監の設置明治の開拓初期、北海道への移動手段は船で渡るしか方法がなかったため、囚人たちの逃亡の恐れの少ないこの地が新たな集治監(現在の刑務所)の設置場所として選ばれました。そして、明治15(1882)年、三笠に空知集治監が設置されました。この集治監には主に刑期10年以上の重罪犯が収監され、炭鉱労働や開拓作業などの労働に使役されました。空知集治監の収監者数は、北海道内の集治監で一番多かったことがわかっています。これは、石炭を多く採掘することを目的として炭鉱労働に囚人を用いたためであり、いかにエネルギー資源である石炭が重要であったのかがわかります。また、空知集治監には政治犯も収監されていました。その中には自由民権運動に関わった者もおり、明治24(1891)年には自由党総裁の板垣退助が慰問に訪れたこともありました。<以上、引用終わり:余り簡略すぎて参考にならない。以下の「赤い人」からの引用などをご参照下さい。>

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空知集治監の幌内炭山採掘経営・囚人の労役:

・・囚人の就役した(明治)十六年には、わずか半年足らずで前年の五倍近い一万七千六百七十七トンの石炭を採掘していた。その成果は、政府の期待を十分にみたすものであったが、囚人たちには苛酷な犠牲を強いた。その年の七月に出役して以来、火傷四、落盤、落炭による外傷三十三、運搬による外傷三十一計六十八名の重軽傷者を出し、その数は採炭作業に従事した囚人の二割七分強であった。(吉村、同書、p176)

坑内作業は囚人たちの肉体にはげしい消耗をあたえ、年末までに(補註=明治十六年末)五十一名が死亡し、共同墓地に埋められた。また、悪環境に堪えきれず五十名の囚人が外役中に次々に脱走、七名が斬殺された。(同書、p176)

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明治三十三年の七月、空知集治監の創設に努力し初代典獄となった渡辺惟精が、東京小石川で病死した。(吉村、同書、p255)

その頃(明治三十三年)、監獄制度の改良を熱心に推しすすめていた司法大臣清浦奎吾の努力がみのって、新たに監獄則が改正された。 ・・その要点は、それまで囚人に課せられた労働が懲戒を目的としていたことを廃し、囚人に技術を教え込み、精神的な教化をほどこすことであった。(吉村、同書、p255) 監獄則の改正によって、空知、釧路両分監は廃止され、・・・・・以下略・・・(同書、p256)

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 ・・旧刑法では殺人犯でも無期刑が限度とされていたが、それは囚人の労役を活用するための便法でもあった。つまり、かれらに課せられる過重な労役は、一種の「緩慢な死刑」でもあった。新刑法は、それらの死につながる労役の苛酷さを緩和させたが、凶悪犯には死刑を科し、それにつれて犯罪の刑量は極度に重くなっていた。それは、囚人の労役をいたずらに囚人懲戒と国家利益の貢献に利用しないという、近代刑法の精神にもとづいていた。 ・・しかし、囚人たちは、労役の過重さから解放されても、長期間獄舎生活に耐えなければならぬ苦痛を味わわされることになった。かれらの間には自棄的な空気が濃く、それが自然に脱走の機会をねらうことにもつながっていた。(吉村、同書、p265)

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